俳句的生活(63)-鶴嶺八幡宮ー

歴史家の磯田さんが、テレビで話していたことですが、彼は小学生の頃、源氏の家系図を余すところなく書き尽くすことを、趣味としていたそうです。実際その記したノートをスタジオに持参して、小学生の字でびっしりと記した系図を、画面に映し出していました。通常ならば、頼朝以前の源氏の棟梁としては、前九年・後三年の頼義、義家父子、保元・平治の義朝、更にせいぜい大江山の鬼退治の頼光ぐらいを思い浮かべる程度ですが、磯田さんは、マイナーリーグの選手も全て列挙していたのです。

掲題の鶴嶺八幡宮は、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮と名称が似ています。創建した人はともに源頼義で、二つの八幡宮はともに、源氏の関東進出を祈願してのものでしたが、今ではかたや全国有数の神社となり、もう片方は、茅ヶ崎の一地域の神社となっています。鶴嶺の方が鶴ケ岡よりも、創建時期が古く由緒あるにも関わらずです。

もともとは河内の軍事貴族であった頼義が、どのようなステップで関東に進出出来たかということですが、鶴嶺八幡宮を創建して、千葉での乱を収めた後、頼義は相模守に任じられます。そこからがウルトラC的な飛躍で、桓武平氏の娘を嫁として迎え、舅からは、鎌倉の所領、大蔵の邸宅、更には郎党までも譲り受けたのです。鶴ケ岡八幡宮を創建したのはこの後で、必然的に懐島の鶴嶺神社とは疎遠になっていき、頼朝の代になると、鶴ケ岡八幡宮を管轄するのが幕府であるのに対して、鶴嶺八幡宮の方は大庭氏ということになり、格が違ってきたのです。

このように、鶴ケ岡八幡宮に後れをとってしまった鶴嶺八幡宮ですが、後世の我々が、よくぞやってくれたと思うのが、源義家が前九年の役で、父親の頼義の応援のために奥州へ赴く途中、鶴嶺八幡宮に立ち寄り、銀杏の苗を手植えしたことです。この銀杏は950年を経て、神奈川随一の銀杏の大木に育ちました。

義家にまつわるエピソードですが、前九年の役で、馬で逃げる安倍貞任に、背後から「衣の盾は綻びにけり」と下の句を投げかけたのに対して、貞任の「年を経し糸の乱れの苦しさに」という上の句の即答が見事だったので、弓を射るのを止めて逃がしてやったということです。新渡戸稲造は「武士道」で、彼は幼児の時に母親の膝の上で、こうした話を何度も聞かされて、そうしたことが一般的であったと書いています。

舞ふごとに光も舞ふる銀杏かな

鶴嶺神社の公孫樹