俳句的生活(62)-茶屋町(2)ー

俳句的生活(39)で、茶屋町には、かって南湖立場という茶屋街があったことを記述しましたが、当時の家並図が、十間坂の第六天神社に保管されていることを知り、宮司さんにお願いして写真に撮らせて頂きました。(添付) 宮司さんとは、俳句的生活(3)で、新田義貞の鎌倉攻めについて、境内で話をした宮司さんです。今回は社屋に入れていただいて、1時間ほど話を伺いました。

南湖の立場は、簡易休憩所であるとはいえ、馬入川が水嵩を増し渡船出来ない時の為、宿泊施設も備えていました。参勤交代のルートでもあるため、宿場並みに、いざというときのために、本陣や脇本陣という格式を備えた家もありました。家並図には、本陣の松屋や脇本陣であった江戸屋も記載されています。松屋は明治25年の大火で消失してしまい、追跡できないのですが、江戸屋の方は健在で、同じ場所に残っています。家並図の下の段の右から5番目の家です。江戸屋金次郎という名前が読み取れます。

江戸屋を営んでいたのは重田という家で、浜降祭と深い関係をもっています。今でも南湖三社の神輿が立ち寄るほどの家です。その起源は元禄の時代にまで遡り、南湖の三社(上町、中町、下町)にまだ神輿が無かったころ、漁師たちは、鶴嶺八幡社の神輿を担いでいたのですが、ある年(元禄十五年)、担いだ神輿を鶴嶺八幡社に、祭が終わっても返さない、という事件がおこりました。この問題を仲裁したのが、江戸屋の重田八郎左衛門という人でした。鶴嶺八幡社には、石垣や石段を奉納して詫びを入れ、更に自身の屋敷神を中町の天王山(八雲神社一帯の地名)に祀り八雲神社とし、神輿も作ることにしたのです。続いて上町金刀比羅神社、下町住吉神社にも神輿ができて、南湖の浜側では、それより鶴嶺八幡社の神輿を担ぐことはなくなり、浜降祭の日には、三社の神輿が江戸屋に立ち寄るということになったそうです。

十間坂や茶屋町の家々は、明治の大火のあと更に関東大震災に見舞われます。重田家の近くの古い家が、震災後に建て直されたものということですので、恐らく重田家も同じ事情であったと思われます。一国の反対側から撮影した旧江戸屋の家並を添付しておきます。

宮司さんの話では、茶屋町のこの貴重な家並図を、第六天神社では耐火金庫に入れて保管しているとのことです。もう一歩進め、デジタル化して、永久保存を計ればと思います。

強肩を競ふ禊や夏の海

茶屋町の地図
茶屋町バス停
旧江戸屋の家並