俳句的生活(56)ー神長官守矢ー

昨稿の補足です。建御名方が諏訪に入る時、在地勢力との間に戦いがあったことを綴りましたが、その時の在地勢力の末裔が守矢家で、代々諏訪大社を仕切る仕事に就いてきました。その役職名を神長官といいます。現在、78代目の方が当主になられています。

諏訪大社の上社の近くに、神長官守矢資料館というのがあります。ここには、江戸時代までの諏訪大社での、生贄を伴った神事が赤裸々に解説されています。鹿を始めとする生贄に使われた動物の剝製が数多く陳列されています。生贄とは、その土地の人々にとって、最も大事なものを、人間の代わりに神に御供し祈るもので、柳田国男が研究対象としています。このあたりには、御射山(みさやま)とか御射鹿池(みしゃかいけ)のように、御の字の後に鹿を射るという地名がありますが、これは諏訪大社が生贄用に鹿を射していたという名残の地名です。

建御名方が諏訪に入って来たのは、大和王権が始まろうとする頃で、約1700年前のことになります。守矢家の78代と丁度良く符合します。古事記の年代では、神武即位がBC660年で、出雲の国譲りは神武より更に4代前のことですから、建御名方が諏訪に入るのは、在地勢力は縄文人で、そこに弥生人が入って来たという図式となり、それはそれで面白いのですが、その時期に天皇家は影も形もありませんから、ありえないことなのです。

冬帝の掃き清めたる諏訪湖かな

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Kenta MabuchiFlickr, CC 表示-継承 2.0, リンクによる

ウィキペディア(Wikipedia)より引用 神長官守矢史料館