俳句的生活(57)-相州砲術調練所ー

享保の時代から幕末まで、藤沢の片瀬から柳島までは、幕府の大筒大砲の訓練所となっていました。相州砲術調練所と呼ばれています。砲術場略図というのが残っていて、柳島記念館に、それを拡大模写したものが展示されているというので、写真に撮ってきました。(添付)

これを見ますと、発射場は辻堂の方にあり、柳島に向かって1町(109m)ごとに定杭が打たれていて、これによって、飛距離を測っていたことが判ります。小和田と茅ヶ崎の間に、村境として線が引かれていますが、これが現在のラチエン通りです。左下には、俳句的生活(9)の添付写真で紹介した砲術場跡の石碑のことが書かれています。また、この略図には、鉄砲道が描かれていますが、現在でいうところの旧鉄砲道です。今では寸断されて部分的にしか残っていませんが、今のような真っ直ぐな道になっていないことに驚きです。

明治以降、この調練場は、横須賀の海軍陸戦隊の演習場として使用されました。戦後はDHQに接収されて、米軍の射撃練習場となり、返還後は、辻堂海浜公園や、大学、公団の住宅地となっていきました。

略図には、当時の大筒の絵が添えられていますが、実に旧式のもので、大阪夏の陣から変化していないように見えます。徳川時代というのは、対外膨張をストップし、国内的には軍備縮小を進めたいわば、非武装中立国家でした。200年の太平の夢を、軍事力で恫喝され、その反動としていきついた先が、昭和20年ということで、返す返すも残念なことです。

烏帽子撃つ夷狄に夏を取られけり

砲術調練場
相州砲術調練場の略図
砲術調練場
砲術調練場
鉄砲場の大筒