俳句的生活(55)-古事記(2)ー

越前通りを挟んで浄見寺と反対側に、建彦神社というのがあります。いかにも古事記と関係しそうな名前なので調べたところ、矢張りそうで、建は出雲の国譲りに出てくる建御名方(たけみなかた)の一字で、主祭神は建御名方であるとのことです。

古事記に依れば、天孫(天照大神の孫)である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向高千穂に降臨する一世代前に、地上の支配権を高天原のアマテラス側に譲るよう、地上の支配者である大国主に要求します。大国主の二人の子供のうち、兄の方は承諾するのですが、弟の建御名方は納得せず、アマテラス側と戦い、敗れ、出雲から糸魚川経由で諏訪に入ったというものです。諏訪に入る際には、在地の勢力と争い、これには勝って諏訪大社に祀られることになります。全国には数多くの諏訪大社の支社がありますが、建彦神社も諏訪大社の末社を前身としたものなのです。

以下は古代史における私の仮説です。天皇家はもともと九州での一部族で、1世紀に北九州の覇権国家である伊都国が衰亡したのに伴い、近畿に移り、纏向を本拠地とする邪馬台国連合の構成メンバーとなります。卑弥呼の後の台与の時代に台頭し、連合国家の中で、覇権を握ることになります。天皇家系譜では10代の崇神さんの時です。3世紀末から4世紀初めにかけてのことで、日本武尊による熊襲・蝦夷の平定や、出雲の争奪は、歴史的にはこの時期のことです。

神社についてですが、最も古いといわれている出雲大社は、天智や天武の母親である斉明天皇の時に創建されたとする記録があり、また、伊勢神宮は、斉明の孫である持統天皇によるものとする記録があります。人工による建物が造られる以前は、大神(おおみわ)神社が三輪山そのものをご神体としたように、自然の中に神は宿るとされていました。

諏訪大社に祀られた建御名方は、大社の四辺をなす4本の柱の中だけで過ごすことの誓約を取られますが、1700年を経て、その末社、摂社の数は日本屈指のものとなり、地上の支配権は失っても、信仰の対象として、末永く続くことになったのです。

古事記なる出雲の海の夕焼かな

建彦神社
建彦神社