俳句的生活(54)-漱石と軽便鉄道ー

本稿を綴ろうとした矢先、本日の読売新聞夕刊に、歌謡曲「高原列車は行く」という記事がありました。古関裕二作曲、丘灯至夫作詞で、岡本敦郎が歌った曲です。てっきり信州を走る小海線のような列車とばかり思っていたのですが、驚いたことに、福島県猪苗代町を走っていた軽便鉄道がモデルであった、とのことでした。

漱石の時代、東海道線は箱根の峻嶮な山を避け、国府津から御殿場をまわり、旧三島(現御殿場線下土狩)駅へ抜けていました。そのため、漱石や鏡子夫人が修善寺へ行くのは、旧三島駅で豆相鉄道に乗り換えて大仁まで行き、そこから人力車で修善寺へ向かうというものでした。この豆相鉄道が軽便鉄道だったのです。また、「明暗」では主人公が小田原から湯河原へ行きましたが、これがまた軽便鉄道でした。修善寺や湯河原の温泉は、今でいえば秘湯に属します。簡単には辿り着けない処でした。

長い間、この軽便鉄道がどんなものか、疑問でいたのですが、最近ではいろいろな場所に展示されるようになって、実物を見ることが出来るようになりました。この近くでは、熱海駅前に展示されています。蒸気で走る狭軌の一輌車です。通常の鉄道が作れない処に作られたものですから、カーブが多く路肩が脆弱で、大雨が降ると、しばしば崩れたりしたものです。「明暗」では、主人公の乗った軽便が脱線し、乗客が総出で押して復旧させるようなことが、描かれています。

漱石の時代から100年余、軽便はトロッコ列車と呼ばれるようになり、全国の景勝地で超人気の路線となっています。代表的なのは、京都保津川沿いのトロッコ列車でしょう。予約を取るのに一苦労する列車となっています。

紅葉に触れゆくほどの列車かな

Atami Railway in Taisho era.JPG
不明 – 国書刊行会「目でみる懐かしの停車場」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディア(Wikipedia)より引用 大正時代の熱海鉄道蒸気機関車