俳句的生活(51)-サザン通りー

サザン通りは、海への5本の道の中で、最も西側に位置し、かっては南湖院へ通う道でもありました。名前の由来は、茅ヶ崎南湖で生まれ育った桑田佳祐が率いるサザン・オールスターズに依拠することは周知のとおりです。1980,90年代に爆発的人気を誇ったサザンが、茅ヶ崎海岸に特設会場を設け、凱旋的なフェスを行ったのは、2000年8月でした。それと同期をとるように、前年の1999年に、茅ヶ崎海水浴場はサザンビーチ茅ヶ崎に、通りの名称であった南口商店街はサザン通り商店街へと、名前を変えていきました。

茅ヶ崎のイメージというものは、茅ヶ崎に実際に住む人と茅ヶ崎外部の人とで、大きく異なっています。そのことを最初に映画化したのが、森田芳光が監督をした「ライブ・イン・茅ヶ崎」(1978年)です。森田は母親の実家が萩園で、幼少の頃は夏休みを茅ヶ崎で過ごしていました。この作品は、茅ヶ崎で生まれ育った20代の若者たちの普通の生活を描いたもので、そのうちの一人は「僕ら茅ヶ崎に生まれ育ったとしても、週刊誌に出てる湘南ボーイみたいに、年がら年中サーフィン乗ってるわけじゃないし、帰りに女の子と遊ぶわけでもない。」と語っています。

桑田さんが生まれたのは、「太陽の季節」が封切られた1956年ですが、彼は「加山さんなんかが作った「湘南」にみんなが憧れているってのは分かるんだけど、僕らの時は、憧れる対象なんて漠然としちゃって、もう何も無いっていう時代だからね。(中略)だからきっと加山さんとか石原裕次郎さん、慎太郎さんとかの時代は、そういう言い方がメジャーになっていたんだろうけど、俺らの時代はもう終わっちゃった後だったから、湘南て呼ばなかったよね。」(特別インタビュー桑田佳祐 いとしの湘南物語 1990年5月)と語り、太陽族映画や若大将シリーズの湘南のイメージに強い違和感を抱いていたことを吐露しています。

今振り返ってみますと、桑田さんが言っている もう何もない時代 というのは、日本がジャパン・アズ・ナンバーワンとして酔いしれていた時代であり、あり過ぎることによって、逆に何も無いように見えていたのだろうと思います。

2000年のサザンの茅ヶ崎ライブは、31年前のエルビス・プレスリーの、ウッドストック・フェスを髣髴させるものでした。聴衆は熱狂し舞台と混然一体となる。規模は異なりますが、リストのピアノ演奏に貴婦人が失神する、というのも同じ現象だと思います。50年前のアメリカはベトナムで敗退し、20年前の日本は、その直後に氷河期と呼ばれる就職難の時代になっていく。山高ければ谷深し とは将にこのことをいうのかと思ってしまいます。

皮肉なことですが、今の茅ヶ崎のイメージはサザンのものになっています。茅ヶ崎に住む人間としては、それも違っているよ、とつい言いそうです。

サーファーのサザンビーチへ続く道

サザン通り
サザン通り商店街