俳句的生活(269)-平塚(5)平塚宿(2)旅籠ー

平塚宿の名前が初めて文書に現れるのは、鎌倉時代の後期、亀山天皇の皇子で仁和寺の門跡となっていた益性法親王という人が、鎌倉から京都に戻るときに、自分のための雑役を務めていた下法師を、「平塚宿」で返した、と手紙に記述したものです。鎌倉時代には未だ現在のような東海道は出来てなく、箱根を越えるのは、平塚から大磯の海岸を酒匂川まで進み、川沿いに北上して足柄峠を越えるというものでした。従って平塚は古くから交通の要衝だったのです。

(余談になりますが、亀山天皇は後醍醐天皇の祖父で、従って益性法親王は後醍醐天皇の叔父にあたります。また南北朝時代には未だ足柄峠が関東への入り口であったことは、後醍醐天皇に反旗を翻して鎌倉へ下った足利尊氏を追討するために、官軍として鎌倉に向かった新田義貞が足利軍と激戦するのが、足柄峠の「竹の下」となっていることからも判ります。)

徳川家康に経世の明があったのは、関ヶ原で勝利した1年後には早くも東海道に宿駅制を敷いたことです。これが全国規模での初めての宿駅をもった街道整備となりました。戦国時代、武田信玄は居城の甲府から川中島へ通じる「信玄の棒道」と呼ばれる軍用道路を造りますが、これはあくまでも一地域のもので、宿駅の機能などは備えたものではありませんでした。家康が東海道に宿駅を置いたのは、当時上方にまだ豊臣氏が居て、軍隊の通行と情報の伝達を早くする必要があり、旅人のための宿場とするのは、もう少し時間を経てからのことでした。

宿場として平塚を見た場合、位置的にどうしても中途半端なものにならざるを得ませんでした。その理由は、箱根八里をはさむ宿場として、小田原と三島には宿泊せざるを得ず、この両宿は遊郭をも持つ規模の大きいものとなりましたが、藤沢宿と小田原宿との距離は30kmあまりで、一日で歩けない距離ではなく、途中の平塚と大磯は、休憩所となる色彩が強かったのです。勿論お金に余裕があり急ぐ必要のない人や、相模川の水量が多くて渡船できない人たちが宿泊所としたのは勿論のことです。江戸時代の平塚を詠んだ川柳に、平塚の宿は毒にも薬にも という句が如実にその辺のところを表していると思います。

江戸時代、人々の旅行が増えるにつれ悪質な旅籠屋が目立ってくる一方で、安心で信頼できる良質な旅籠屋が望まれるようになりました。そこで、文化元年(1804)、大坂の松屋源助を発起人として旅籠屋組合である「浪花講」が成立しました。浪花講は優良な旅籠屋を指定し、加盟旅籠には看板を交付、諸国の加盟旅籠を収録した「浪花講定宿図絵」というものが出版されました。

浪速講定宿図絵

定宿(じょうやど)とは、講が指定した良質の推薦宿のことです。

図絵の定宿

この図絵には平塚宿の定宿として「米屋又兵衛」の名前がみえます。またその右隣には茅ケ崎南湖で立場茶屋を営んだ「江戸屋八右衛門」の名前が休憩所として挙がっています。米屋についてですが、これを(『平塚市史』4 資料編近世3)で確認すると、現在の錦町付近にあった間口5間半、建坪57坪2分5厘の二階建ての旅籠屋であったことがわかります。江戸見附から約100m宿場の中に入った処です。

平塚の本陣の建坪は167坪で、東海道の中でも小さい方に属します。東海道の宿場の本陣で、唯一昔のままに現存するのは、近江草津宿のものです。

草津宿本陣
草津宿本陣

この本陣の建坪は500坪を越していますので、平塚の3倍以上の規模となっています。平塚は戦災によって、町の中心部は何もかも焼失してしまっているので、場所を示す石碑と江戸時代に描かれた美しい風景の浮世絵でしか、面影をしのぶことができません。

平塚の浮世絵

この広重の浮世絵に描かれている棒は傍示杭(ぼうじぐい)と呼ばれるもので、宿境を示すものです。背景に高麗山が描かれていますから、平塚の京見附あたりからの絵となっています。傍示杭は木製であるので、残念ながら現在には1本も残ってはいません。