俳句的生活(268)-平塚(4)平塚宿(1)見附ー

平塚宿は、JR平塚駅の少し西の処から大磯町との境まで、東海道に沿って1.5kmの間に約50軒の旅籠を連ね、両端には見附と呼ばれる施設が作られていました。私が治療を受けている歯科クリニックの診察台から見える、富士山を遮るように建ってしまったマンションを見てきました。

ダイアパレス平塚見附

マンションの名前になっている「平塚見附」は、この辺りの地名が見附町なので、そこから採ったマンション名ということです。この町名は、宿場の東端に作られていた「江戸見附」に由来しています。

平塚の江戸見附跡

石垣の上に矢来(やらい)と呼ばれる竹で出来た柵が作られていますが、この構造物は、戦災で破壊されたものを、明治14年に外国人によって撮影されていた写真に基づいて復元されたものと案内図に説明されています。その写真とは、

明治14年ごろの平塚江戸見附

というもので、東海道の両側に、復元されたと同じような石垣が写っています。当初、私が見附というものに持っていたイメージは、宿場に出入りする旅人を監視する江戸の町の木戸のようなものだったのですが、これでは監視する人が留まることは出来ず、単なる宿場の入り口の目印となるものでしかありません。一方、江戸城を防備するために外堀の36か所に作られた見附はどうだったかというと、明治初期に撮られた赤坂見附の写真は、

明治初年期の赤坂見附

というもので、門構えがあり、番兵が駐屯できるようになっています。現在では弁慶壕(外堀)に石垣が残っています。

現在の赤坂見附跡

では、江戸時代の東海道の見附がどのようなものであったかと、浮世絵をチェックしてみました。

藤川宿の見附(浮世絵)
浮世絵の見附
同じく浮世絵の見附

三つほど例を挙げてみましたが、どれも石垣に矢来の柵が立てられただけのものになっていて、江戸城外堀の見附とは、だいぶん雰囲気も規模も違ったものになっています。元々は警備の役割をもっていたものでしょうが、太平の世において経費削減のためからも、単に宿場入り口の目印に変化していったのでしょう。平塚宿の京都側には、大磯町との境界に、「京見附」の跡が遺されています。

平塚の京見附

これも戦後に復元されたもので、石垣だけの構造物となっています。平塚は海軍の工廠があったためか、昭和20年7月に米軍の激しい爆撃を受け、町の大半が破壊されてしまいました。戦後の復興において、元の町並みを取り戻すというような発想は、日本中が破壊されつくしたという状況の中では、今を生きることが精いっぱいで、その余力がなかったということだったのでしょう。