俳句的生活(238)-虚子の詠んだ京都(16)宇治ー

江戸名勝図絵に、今は西日暮里公園となっている道灌山が描かれています。

道灌山
道灌山

ここに明治28年12月、子規は虚子を呼び出し、虚子に俳句における自分の後継者とならないかと打診しています。虚子と子規はともに ”写生” なるものを提唱し、同じ俳句観を持っていたと思われがちですが、実は根本的なところで意見を異にしていて、子規の申し出を虚子は拒絶することとなりました。その違いとはいかなるものか、虚子は子規が亡くなった後の明治37年3月の「ホトトギス」で次のように説明しています。

かって子規子と二人道灌山の茶店に休んで居った時である。だんだん夕暮れになって来て、茶店の下の崖には、夕顔の花がしろじろと咲き始めた。その時子規子の説に、「夕顔の花といふものの感じは、今迄は源氏その他から来て居る歴史的の感じのみであって、俳句を作る場合にも空想的の句のみを作って居った。今親しく此夕顔の花を見ると、以前の空想的の感じは全く消え去りて、新しい写生的の趣味が独り頭を支配するやうになる」と。

それに対しての虚子は、

余は大いに子規子には反対せずには居られなかった。それは、夕顔の花そのものに対する空想的の感じを一掃し去るといふ事は、折角古人が此花に対して付与して呉れた種々の趣味ある連想を破却するもので、たとへて見ると名所旧蹟等から、空想的の感じを除き去るのと同じやうなものである。名所旧蹟は一半の美はその山水即ち写生的趣味の上に在るが、一半の美は歴史的連想即ち空想的趣味の上に在る。夕顔の花も同じ事で、一半の美はその花の形状等目前に見る写生趣味の上に在るのであるが、一半の美は源氏以来の歴史的連想即ち空想的趣味の上に在る。

との考えを示しています。

少し長々と、子規とのやり取りを引用しましたが、それは宇治においての虚子の句に、上の説を実践したものが多々見られるからです。宇治といえば、百人一首、源氏物語、平家物語を連想せざるを得ない土地柄です。

秋の灯や世を宇治山の頂に  虚子(昭和3年10月)

中句の ”世を宇治山”、どうしても百人一首の喜撰法師「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山とひとはいふなり」を思わずにはいられません。

喜撰法師
百人一首の喜撰法師

秋風や宇治の柴舟今もなほ  虚子(昭和10年10月)

”柴舟” とは柴を積んだ舟で、源氏物語「浮舟」に叙述されています。

宇治の柴舟
宇治の柴舟

宇治川の流れは早し柳散る  虚子(昭和10年)

宇治川の急流で思い起こされるのは、平家物語の「宇治川先陣争い」です。

宇治川の先陣争い
先陣争い

余談ですが、あい争った二人の武将は共に茅ヶ崎と関りを持っています。頼朝より馬を貰っていた佐々木高綱は茅ケ崎最古の寺の開基、もう一方の梶原景季は景時の嫡男で、梶原一族は茅ケ崎の隣の寒川に邸を構えていました。

上のどの句にも、”宇治” という固有名詞のもつ力を利用しています。どれも古典に結びついているものです。一方、子規の有名な句「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」はどうでしょうか。この句からは聖徳太子や斑鳩にまつわることは何も連想されません。せいぜい柿の木の多い奈良の寺というだけのものです。法隆寺の代わりに善光寺でも増上寺でも変わりないように思えます。

巨椋池ポンと弾ける蓮の花  游々子

江戸時代の巨椋池
江戸時代の巨椋池(都名所図会より)