満蒙への道(35)-日米未来戦争(2)白船艦隊の来航(2)-
前稿で大隈重信のナイーブな所感を紹介しましたが、本稿では、アメリカ側がどうであったかを紹介することにします。以下はGWFの横浜寄港の3週間後に書かれたニューヨークタイムズの記事です。
“-DELIRIOUS TOKIO SCENES-
TOKIO, Oct. 22 Fifty five years ago Commodore Perry reached the shores of Japan, with what was then termed by the Japanese, the “Black Ships” and was received with warlike preparations. Today it is Sperry, and not Perry, who visits Japan with the “White Fleet” and is received with the wildest enthusiasm, surpassing in popular demonstration anything in the modern history of the country.
Commodore Perry’s visit changed the entire history of Japan, opened her ports to the commerce of the world, and the introduction of Western ideas and civilization. He is a greater man in the history of Japan than in the history of the United States.
Rea Admiral Sperry’s visit has proven a diplomatic stroke, the full value of which it is as yet difficult to fully realize or estimate. It has dispersed the last semblance of a war cloud and makes us feel ashamed of its former shadow; It has formed a sentiment and bond which no other agency could have produced.”
{Nov. 14, 1908 The New York Times}
(以下游々子訳)“熱狂状態の東京 10月22日発 55年前ペリー准将が日本の浜へ到着したとき、彼の艦隊は日本人により“黒船”と命名されたが、それは戦争が起こりそうな準備で以って受け止められた。今日はペリーではなく白の艦隊で日本を訪れたスペリーであるが、人気の実証においてその国の現代史の何物をも超える最も広範な熱狂で迎えられた。
ペリー准将の訪問は日本のあらゆる歴史を変革した。それは日本の港を海外の商業活動に向けて開き、西欧の思想と文明を紹介した。彼はアメリカの歴史の中でよりも日本の歴史の中でのほうがより大きな人物となっている。
スペリー少将の訪問は その価値を完全に認識したり推測することはまだ難しいのであるが、外交における一撃になったことは確かである。それは訪問前に外見上はあった戦争の雲を解消し、その影を見た我々に恥ずかしい感覚をもたらせた。それは他のどんな機関も作り出し得なかった感情と絆を形成したのである。
{明治41年11月14日 ニューヨークタイムズ}
予想を遥かに超えた日本の熱烈歓迎は、アメリカ人特派員を大いに驚かせています。朝日新聞の記事と同じ10月18日のニューヨークタイムズは、American Flag Everywhere(アメリカ国旗いたるところ)とし、City is decorated with the Stars & Stripes and full of excited people(街は合衆国国旗で飾られ、興奮した人で一杯)と記しています。又10月22日発の特派員記事は、この訪問が二国関係に横たわっていた暗雲を取り払ったと最大限の賛辞を述べているのです。
それではGWFを派遣した当のルーズベルト大統領はどのような目的を持ってこの大艦隊を世界一周の航海に向かわせたのでしょうか。派遣前に友人に宛てた手紙では、“艦隊の派遣は日本で起こり始めた醜い戦争論議に対する私の答である。彼らはアメリカが日本など恐れていないことを知らなければならない。これは棍棒を持ちながら静かに話そうというやり方のよい例だ。”と述べています。そして横浜寄港後のスペリー少将に出した手紙には、“私は日本の歓迎に感銘を受けた。アメリカ艦隊乗組員達の振る舞いと、日本人の心のこもった歓迎のどちらもとてもうれしかった。艦隊の派遣が良い結果を生むようにと願っていたが、結果ははるかに期待を上回るものだった。”と書いています。
このように、艦隊の寄港後は、日米双方ともに緊張緩和がなされるのですが、残念なことに日本では艦隊の派遣が決定された明治40年に策定された国防方針で、アメリカを仮想敵国としてしまっていたのです。
明治40年の時点で採りうる国防方針には2つの選択肢がありました。即ち北進南守と南進北守です。北進南守は明治初期から日露戦争まで日本が実際に選択した国防方針で、日露戦後もロシアとの再戦に備えて陸軍を強化する方向です。北進の場合、海軍の役割は海峡の制海権を維持して陸軍のための兵站線を確保することですが、ロシアにはもはや海軍力は存在せず、海軍の軍備拡張の根拠は何もありませんでした。もう一つの選択肢は南進北守です。これは北方への進出をある線で留め、専らアジア南方(中国および東南アジア)ならびに太平洋への進出を目指す路線です。これは必然的に海主陸従となり、陸軍が承知する路線ではなかったのです。そこで現実に選択された国防方針は北進南守でも南進北守でも、ましてや南守北守ではなく、南北併進とも呼ぶべき路線となりました。1907年の国防方針の第二項では次のように記されています。“我帝国は四面環(メグ)らすに海を以ってすと雖も国是及び政策上その国防は固より海陸の一方に偏するを得ず、況(イワン)や海を隔てて満州及び韓国に利権を扶植したる今日においておや。故に一旦有事の日にあたりては島帝国内に於いて戦(イクサ)するが如き国防を取るを許さず、必ずや海外に於いて攻勢を取るにあらざれば我が国防を全するを能わず。”
やや脱線気味に、当時の政治背景を述べてしまいましたが、次稿より本題の ”日米未来戦記” に戻ることにします。