満蒙への道(34)-日米未来戦争(1)白船艦隊の来航(1)ー

日露戦争が終結するまで、日米の関係は、現在の日米関係と遜色がないくらい良好なものでした。ところが日露戦後、両国の関係は急速に悪化していき、両国の巷では日米の戦争は避けられないとする未来予測の本が数多出版されました。本稿より暫く、日米におけるそれらの戦記をみていくことにしますが、先ずはルーズベルト大統領の示威行動である ”白船艦隊” の日本への派遣から述べることにします。

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明治41年10月18日、スペリー少将に率いられたアメリカ艦隊が横浜港に到着しました。戦艦16隻を基幹とする大艦隊はアメリカ大西洋艦隊の全てを引っさげてのものであり、日本の連合艦隊の2倍に相当する規模で、艦船が白色に艤装されていたために、GWF(Great White Fleet)と呼ばれた艦隊です。

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ペリー准将の黒船来航から55年後の出来事でした。GWFは1907年(明治40年)12月16日にアメリカ東海岸バージニア州のハンプトンローズを出港し、南米大陸の南端を回航し、翌年5月にサンフランシスコに到着し、7月にハワイに向けて出航し、途中オーストラリア、フィリピンを経由して10月に横浜に到着したのでした。横浜には1週間停泊し、10月25日に次の目的地であるアモイに向けて出航しています。艦隊は更にインド洋からスエズ運河を経て地中海に入り、パンプトンローズに帰港したのは1909年の2月のことで、実に14ヶ月に及ぶ世界一周の大航海でした。

この白船の来航に日本は朝野を挙げて歓迎しています。艦隊が横浜に到着した当日、大隈重信は、東京朝日新聞に次のような談話を載せています。現代語と異なり、やや読みづらいですが、原文のままに掲載します。

大隈重信

-艦隊来航観(大隈伯爵談)-

ペルイ提督が其の艦隊を引連れて我国を見舞ふたのは恰度(チョウド)半世紀以前で、頃は寛永の鎖国令が出てから二百五十年後であった。

ペリー

 この二百五十年間といふものは、我国民が睡(スイ)を覚まし、当時の閣老連また斯うしてはいられぬと跳ね起きて騒ぎ始めたと云ふ為体(テイタラク)であった。

 然るに当時の国民は外交の何者たるを解せず、ペルリ艦隊の来航を以って直(ジカ)に国家の滅亡を心得、此誤解の結果が国難に殉すると云ふ例の攘夷論に化けて仕舞った。が一方には群雄割拠の封建制度では到底国政の統一は保たれない、外部よりの圧迫に対しては是非共挙国一致とならなければと云ふ即ち新しき思想なるものが始めて現出して尊王論を喚起し、国家と天皇との連絡を生じて尊王攘夷の二語が叫ばるるに至った。

 然るにペルリの手段が巧妙であった処へ持って来て、其の後ハリス領事の外交手段がまた却却(ナカナカ)巧みなもので、其言動に於いて危険の分子と云ふものは露程も認めることが出来ない。

ハリス

 そこで外国の軍艦と云ふものは決して国を取りに来るものではない、戦争をする為に来るものではない、其齎す(モタラス)所のものは正義である、平和である、人道である、文明である、進歩であると云ふ理屈が漸次判って来て、ハリス領事の言動にも安心が置かれると云ふことになってみると、今度は外国の進歩文明が著しく目に映じて、己の国の未開なること、幼稚なることなど総ての欠点が甚だしく感ぜられて万事日本の状態が、うら恥かしく思われるやうになった、是(ココ)に於いてか一時の現象として熾(サカン)に叫ばれた攘夷論なるものは次第に下火となって、盛んに開国論が勃興し、遂に明治四年に至って開国進取の国是と云(イフ)ものが定められた。

 当時ペルリ艦隊の来航がなかったとしても、我国勢は世界の大勢に余儀なくせられて乾坤一転の変化を見たに相違あるまいが、其れは先ず別問題となし、兎に角ペルリ艦隊の来航が斯くの如く我国民の惰眠を破り、又開国五十年の歴史に偉大なる事業を印したものとすれば、今日の米艦隊来航に対しては我国民は先ず以ってペルリ艦隊のことを記念せなければならぬ。

 今日米艦隊の廻航は、大統領の教書にも見られた通り一に練習の目的であり、又我国に来航するのは我国の招待によったものでもあらう、左りながら此友邦の大艦隊が愈々(イヨイヨ)我国を見舞ふと云ふ事になって見ると、単に大統領の所謂(イワユル)練習の目的のみにあらず半世紀前に彼等の祖先が日本に来て種を蒔き、之を文明に導いて置いた其出来栄(デキバエ)が今日はドーであるか、定めし見事なる出来栄であらう、すれば其れを見て日本人と共に喜びを分つことにしようと云ふ意味が十分含まれて居り、又含まれて居なければならぬことを信じる。之に対しては我国民もまた、半世紀前ペルリ提督の誘掖(ユウエキ)指導によって二百五十年間の睡眠より覚め、爾来(ジライ)開国進取の国是によって国運を隆昌の域に進め、今日は斯く斯くの状態にて列強の班に伍することが出来ましたと云ふことを彼等に報告して喜んで貰ふと云ふ関係がなければならぬ。

 此意味関係を能(ヨ)く考えてみると、実に言ふに言はれぬ麗しき情合が此間に含まれて居る、此情合に基く善隣の好誼(ヨシミ)なるものは過去より現在、現在より将来に継続すべきもので何者も容易に之を離すことは出来ぬ。然らば今回の艦隊の来航も亦、ペルリ艦隊来航当時の如く我国否東洋の天地に正義と平和と人道とを齎した(モタラシタ)ものと見做すことが出来ると同時に米国の物質上の進歩に就ても、大に(オオイニ)学ぶところのものがあらうと信じ、我輩は満幅の喜悦を以って之に捧ぐる所以(ユエン)である。”

{明治41年10月18日 東京朝日}

大隈は既に総理大臣を経験した老練な政治家ですが、彼のペリーやハリスを視るナイーブさには驚くばかりです。