満蒙への道(24)ー北進南守か南進北守か(2)ー

ぞなもしと風呂に浸かるや赤とんぼ  游々子

大正12年の国防方針に対して、在野から疑義を唱えた人がいました。反戦の軍人と称されている水野広徳という人です。彼は高浜虚子より1歳年下の松山出身で、夏目漱石が英語教師として赴任した中学を、漱石とはすれ違う形で卒業し、江田島の海軍兵学校に入っています。山本五十六より6期上で、日本海海戦においては、水雷艇長として参加し、この時の経験を基にした「此一戦」という本は、ベストセラーとなりました。彼は大佐にまで昇進するのですが、海軍の方針と合わず、自己都合で退役し、以後、反軍国主義評論家として活動し、昭和20年の敗戦を見て亡くなっています。

大正12年の国防方針は、2月に策定されていますが、水野は同年6月発行の「中央公論」に「新国防方針の解剖」という題の評論を発表しています。国防方針は基より極秘扱いとなっていて、水野が原本を直接見れる立場ではありませんが、この時の国防方針は内閣にはあげられていて、水野は、”坊間伝えらるる処に依れば” との表現で推測した内容は、驚くまで原本と一致するものになっていました。

水野が展開した論点は4つに要約できます。

(1)その第一として、国防方針が、軍人の手によってだけで策定されていることを指摘しています。”然るに此の重大問題の計画、決定、実施の権が、経済知識に乏しく、政治識見の低さ、而かも思想に於いて旧腐固陋武断主義なる老軍人に依って独占せられ、壟断せられ、国民の意思は寸毫だも顧みらるる処はない”

(2)次に挙げているのが、陸軍と海軍とでの想定敵国の相違です。”之が為、国防に対する海陸の協調は自ずから円滑を欠き、互いに排他自薦して軍事予算の分捕り戦を惹起し、両者の反目は漸次強烈露骨になって来た”

(3)更に続けて、”日米開戦せば” の章以降、日本の米国に依存する経済状況を分析し、持久戦にならざるを得ない日米戦争において、日本に絶対勝ち目は無いと結論づけています。日米戦争では、”海上より百台の飛行機を東京の上空に飛ばすことは左程の難事ではない。百台の飛行機は一夜にして東京全市を灰燼に帰せしむることも出来るであろう” とし、航空機産業が大きく立ち遅れている現状を前にしても、”なお戦争を説き、国防を語る軍事当局者の大胆と鉄面とに寧ろ呆れざるを得ない” とまで記述しています。

(4)日米戦争が不可避であるかどうかについて水野は、”然らば日米戦争は遂に避け得ざるか、語を換へて言へば、日米両国は世界に共存し能はざる程の利害の衝突ありやと問はば、吾人は之を発見するに苦しむものである。而かも今日両国の間に一抹の陰翳凝って解けざる所以のものは、唯両国国民に於ける相互了解の欠乏に基づく疑心に外ならない。即ち利害の衝突にあらずして、むしろ感情の衝突に外ならない” と結論づけています。

昭和に入り、水野が危惧した通りに進んでいったのは、痛恨の極みです。

水野は本評論を終えるに当たり、次の孟子の言葉を引用しています。”大を以て小に事(つか)ふる者は天を楽しむ者なり。小を以て大に事ふる者は天を畏(おそ)るる者なり。天を楽しむ者は天下を保ち、天を畏るる者は国を保つ。” と。

そして最後に彼自身の言葉として、”強を以て弱を虐げ、小を以て大に逆らふ者は何を保ち得るであろうか?” と結んでいます。 

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