満蒙への道(23)ー北進南守か南進北守か(1)ー

椰子の葉を叩くスコール銀婚式  游々子

太平洋戦争後、盛んに取り上げられた論は、陸軍悪玉・海軍善玉という説でした。即ち海軍は日独伊三国同盟に反対であり、日米開戦にも反対であったが、陸軍によって押し切られたという説です。しかしながら、明治40年から大正12年の間に制定された、3度にわたる国防方針の内容をみれば、この説は全くの誤りであることが判ります。実際は海軍の面子から、陸主海従とならないよう、アメリカを想定敵国に仕立て上げて予算獲得に走り、挙句の果ては、勝つ見込みがないと海軍自身が思っているにも関わらず、対米開戦に同意せざるを得なくなったのが、海軍の実相です。

明治40年の時点で採り得る国防方針には、2つの選択肢がありました。即ち北進南守と南進北守です。北進南守は明治初年から日露戦争まで、日本が実際に選択した国防方針で、日露戦後もロシアとの再戦に備えて陸軍を強化する方向です。北進の場合、海軍の役割は海峡の制海権を維持して、陸軍の為の兵站線を確保することですが、ロシアにはもはや海軍力は存在せず、海軍の軍備拡張の根拠は何もありませんでした。

もう一つの選択肢は南進北守です。これは北方への進出をある線で留め、専らアジア南方(中国および東南アジア)ならびに太平洋への進出を目指す路線です。これは必然的に海主陸従となり、陸軍が承知する路線ではありませんでした。そこで現実に選択された国防方針は、北進南守でも南進北守でも、ましてや南守北守ではなく、南北併進とでも呼ぶべき路線でした。

戦前の国防方針は、現在の防衛白書とは異なって、非公開のもので、そこには明確に想定敵国の名前が記されていました。第1回の国防方針から第3回のものまでに、想定敵国は次のように遷移しています。

第1回(明治40年) 第1位 ロシア、 第2位 アメリカ
第2回(大正7年) 第1位 ロシア、 第2位 アメリカ、 第3位 中国
第3回(大正12年) 第1位 アメリカ、 第2位 ソ連、 第3位 中国

対華21条を突き付けた中国が、第2回の国防方針で第3位の想定敵国として追加され、大正11年のワシントン会議で、アメリカにより日英同盟を解消させられた後の第3回国防方針で、とうとうアメリカを、第1位の想定敵国と規定してしまったのです。この国防方針の中で、アメリカについては、”早晩帝国と衝突を惹き起こすべきは、蓋し必死の勢い” となっているのに対して、ソ連については、”親善を基調とせば、彼我衝突の機会は大いに減少すべし” と記されています。国防方針は軍人が起草したものですが、何たる視野の狭さか、と思ってしまいます。

日本は、第一次世界大戦を処理したベルサイユ条約で、ドイツの委任統治領であった南洋諸島の権益を、そのままの形で引き継ぐことになりました。太平洋への進出を大きく実現したことになりましたが、こうなると海軍力はもはや欠かせないものとなりました。委任統治となった南洋諸島の地図(添付)を見ますと、アメリカ領のグアムを取り囲むようになっていて、これではアメリカとの対立が抜き差しならないものになっていくのは、眼に見えています。

南の島で家族奪われ苦しみ今も――南洋戦を生き抜いた人たちの国に問う闘い
YAHOO JAPAN ニュース より