満蒙への道(14)-満蒙奥地探検(2)ー

韃靼の海白蝶の渡りけり  游々子

本稿より、明治25年から26年にかけて敢行された、福島安正の単騎でのシベリア横断の大冒険を記する積りでしたが、それには当時のモンゴルがどうなっていたかを、前もって知っておく必要があることに気付き、1稿だけ寄り道することにしました。

1368年、それまで中国を支配していた「元」は、「明」を建国した朱元璋によって、大都(北京)を追われ、元々の彼らの故郷であるカラコルムに遷っていきました。この時代のモンゴルのことを、中国史では、「北元」と呼んでいます。20年後、ハーンの位をめぐっての争いで、フビライの皇統が絶え、明は北元は滅亡したものとみなし、韃靼と呼ぶようになりました。日本語では、ダッタンあるいはタタールと呼んでいるものです。

その後、「北元」では、チンギス・ハーンの末裔たちが、ハーン位をめぐって相争うこととなり、弱体化はしていくのですが、「明」自体がそれ程、軍事的には強くなかったせいもあり、明の皇帝が捕虜となるようなことさえ起きています。この時代の、”北虜南倭” というのは、南の倭寇と北の「北元」の脅威ということです。万里長城が西に大きく延びていったのも、明の時代でした。

ところが約300年後、日本では徳川の3代将軍家光の頃ですが、満州で勃興した女真族の「後金」が、北元に侵入し、最後のハーンを殺害し、元朝の玉璽を奪う事件が起こりました。ここで「北元」は正式に滅亡し、「後金」は「北元」のハーン位を合わせて、大清帝国と国名を変えました。長城の東端の山海関を超えて中国本土に進出して、「明」の最後の皇帝を自殺に追い込み、中国、満州、モンゴルを合わせた大帝国となったのは、8年後のことでした。

清朝では、モンゴルの名称を、韃靼ではなく蒙古とし、ゴビ砂漠の北側は外蒙古、南側は内蒙古と呼ばれるようになりました。現在、外蒙古はモンゴル国、内蒙古は中華人民共和国のなかの、内モンゴル自治区となっています。辛亥革命以降の歴史がそうさせたのですが、それは別途また記述することにします。我々日本人が使っている満蒙とは、満州と内蒙古を合わせた地域のことです。

以上の予備知識のもとに、次稿より、福島安正の単騎横断に入っていくことと致します。

Nomadic Soul より