満蒙への道(13)-満蒙奥地探検(1)ー

蒙古馬と並走麦の秋の汽車  游々子

日露戦争における日本の勝利は、政治・軍事ばかりでなく、文化の面においても、大きな刺激を与えることになりました。旧制第三高等学校(現京都大学)の寮歌に、”紅もゆる” というのがありますが、その3番の歌詞は、

千載秋の水清く
銀漢空にさゆる時
通える夢は崑崙の
高嶺の此方ゴビの原

というものです。特筆すべきことは、この寮歌が作られたのは日露戦の直後で、作詞者は21歳の、三高の生徒であったことです。このように、この時期すでに若者の間に、満蒙や更にその奥地のモンゴルに対して、憧憬に似た感情が芽生え出していました。

本稿より数回にわたって、戦前の日本人がどのように、文化・学術的、あるいは探検的にユーラシア大陸の奥地に関わってきたかを綴ってみたいと思います。取り上げる事項は、

* 福島安正のシベリア単騎横断
* 鳥居龍蔵の満蒙フィールドワーク
* 梅棹忠雄の張家口での研究生活

です。彼らよりも前の日本人で大陸に渡った人物として、江戸後期の間宮林蔵を挙げることが出来ます。彼は、樺太が島であることを確認したあと、沿海州に渡り、アムール川を遡上し、デレンという交易地で、清国の役人と接触していますが、イメージとしては、満蒙の奥地まで行ったというものではありません。矢張り、明治になってからのものが本格的なものになっています。次稿より、シベリア単騎横断から記述していくことに致します。

吉田山の紅もゆるの碑
歌碑を訪ねて西東より