俳句的生活(181)-信州高遠の石工ー

高田村は、かって、大岡忠相の実家が知行する村でした。村の鎮守社である熊野神社は、忠相の父親である忠高が、紀州熊野権現を勧請して創建したものです。

社の左前に、小さな手水石が置かれています。正面には、寛延四年(1751年)の年号と、寄進者である大岡吉次郎の銘が彫られています(添付1)。吉次郎とは大岡忠移(ただより)の通称で、山田奉行と長崎奉行を務めた殿様です。裏面は、古くて読みづらいのですが、製作者の銘として、信州高遠藤澤郷石工守屋喜八 と刻まれています(添付2)。

高遠への車でのアクセスは、茅野から杖突街道を通り、1時間ほどの距離です。高遠は伊那市で、茅野との市境は杖突峠となっていて、日本百名峠の一つです。茅野側は、糸魚川静岡構造線が通過していて、断層崖となっています。

高遠を現在有名にしているのは、高遠城址公園の桜と、大奥の艶聞、絵島・生島事件で、絵島の配流先となった土地であることですが、江戸時代には、多くの石工(いしく)が全国に旅稼ぎに出かけ、石仏を彫ったことから、高遠の石工として知られていました。そのうちの一人が、高田熊野神社の手水石を創っていたことになります。

高遠の石工で最も有名なのは、守屋貞治という人で、喜八より、一世代あるいは二世代あとの石工で、68歳の生涯で、340体余りの石仏を創っています。石工というより石仏師と呼んだほうが当たっています。守屋という姓は、近くにある諏訪大社上社のご神体である守屋山から取ったものとすれば、喜八と貞治は同族であったものと考えられます。

製作者の銘を刻むことは、依頼主の許しがなければ出来ないことで、大岡吉次郎という旗本は、寛容な殿様であったと思われます。

長男も旅稼ぎする石工かな

添付1
添付2