俳句的生活(173)-フォッサマグナー

昨年11月のことになりますが、NHKのブラタモリという番組では、フォッサマグナがテーマとなっていました。地質に詳しいタモリさんにとっては、番組の200回目を前にして、漸く本題に辿り着いたというところではなかったでしょうか。ロケ地となった糸魚川市には、ジオミュージアムという施設があり、そのHPで、フォッサマグナの形成の過程が、一目で分かるように記載されています(添付1)。1700万年前に、日本列島はユーラシア大陸の東端にあったのが分離し、それが1600万年前に中央でバキッと折れ、その隙間に土砂が溜まり、それが隆起して出来上がったとするものです。

フォッサマグナの境の識別は、左右の地質の違いによってなされます。フォッサマグナの西端は、糸魚川・静岡構造線として早くに特定できたのですが、東端についてはフォッサマグナの中に、関東山地の古い地層があって、長らく直江津から平塚に至る線が東端とされてきましたが、現在では柏崎から千葉に至る線が有力視されています。

フォッサマグナは、関東平野の西半分を蔽い、更に万年のスパンでは隆起を続けていて、そのことが相模川の流路の西遷と深い関りを持っています。多分に私個人の推論が混じっていますが、それを述べるのが本稿の主旨です。

相模川は、50万年前には横浜の方を流れていたということは、よく耳にすることですが、それを海老名市の教育委員会で図にしたものがあります(添付2)。この図は、50万年をかけて、八王子を中心点として、流路は時計回りに回転して、近現代の本流に至ったとするものです。どうしてこうしたことを主張できるかということですが、地表からボーリングをかけて、どの深さの地層は何年前のものであるかと分析をしていけば、現在の流路に近いほど、堆積物の年代が新しいことが判明して、西遷したことが証明できるのです。西遷を起こした力は、フォッサマグナが、堆積物を溜め海面上に浮上して、相模川が造られた後の隆起は、それまで一律の隆起であったのが、川の東側が西側よりも高い隆起と変わったため、東側からの圧力によって、川は地震や洪水の度に西へと移動していったのです。それは近世においても続いていることです。

旧橋脚についてですが、明治40年に編纂された「高座郡地誌」に、筏間池(いかだまいけ)についての記述があり、”この池は古相模川の遺跡にして、源頼朝の時、稲毛三郎重成が橋を架けせしは、この付近なりという。” と記されています。天保年間に編纂された「新編相模国風土記稿」では、古相模川について、”一名筏川という。この川、村内にて長さ五十間ばかりの所は、幅三十間あり、さながら池のごとし。。。東海道のかかる所、板橋を架す。長さ六間半、今宿橋と呼ぶ。” とあります。また、明治12年の「皇国地誌」では、”建久年間に相模川に初めて橋を架けた所はここで、享保3年(1718年)の洪水の折、楠の旧橋杭が出て、徳川家に納めた。” となっています。

これらから判ることは、大正の関東大震災よりも前の時点で、古相模川に架けられていた橋の橋脚は、地面に埋まっていて、時折地表に出現していた、ということで、明治の人達もそれを知っていた、ということです。関東大震災で出現した下町屋の橋脚を、その時鑑定した沼田博士の、これぞ稲毛重成が造ったものと結論づけた根拠は、吾妻鏡での記述と、橋脚の木材が鎌倉初期のものであると年代測定されたことの2つだけです。橋脚は水田から出現したのですが、水田の下の地層は墓域となっています。享保で出現したものとの比較もされておらず、沼田博士の鑑定には曖昧さがある、というのが私の感想です。

そもそも古相模川は、東西に流れていて、旧橋脚は南北に架けられています。橋の規模は、相模川の本流を跨ぐほどの大きさではなく、私の仮説は、鎌倉時代すでに相模川の本流は西にあって、そこには橋は架かっていなかった、とするものです。水量は昔も今も変わるはずがなく、上流にダムがなかっただけでも、昔の方が、激流であったと思います。江戸幕府が橋を作らなかったのは、江戸防衛のためではなく、造ることが出来なかったのが真相ではないかと思っています。江戸幕府が造れなかった本流の橋を、鎌倉の一御家人に造れるはずはなく、稲毛重成のものは、相模川の一支流に架けた橋である、とするのが私の推論です。

断層の襞万年の草萌ゆる

フォッサマグナ
添付1 区分:⑤フォッサマグナ – ドボ博 川展 (dobohaku.com)
相模川の流路
添付2 @かわさきジオポイントcafé : 相模川の流路の移り変わり (doorblog.jp)