俳句的生活(170)-峠と分水嶺ー

芹沢の里山公園の西端に、小出中央通りから小出川の新道橋に至る道があります。俳句的生活(152)江戸への近道で取り上げた道ですが、この道の途中に、一寸峠というちょっと変わった名前の峠があります。読み方は ”ひとあしとうげ” というもので、茅ヶ崎でただ一つの峠となっています(添付1)。

新道橋への道というのは、尾根伝いの道で、左右は谷戸になっています。一寸峠は、西の谷戸(柳谷)と東の谷戸(中の谷)を結ぶ道で、四つ辻には(添付2)のような標識が立てられています。谷戸は尾根から15m急坂を下っていて、近くに縄文の遺跡があることから、この峠は縄文人の生活道であったのではないかと思われます。

峠から連想するのは、そこが分水嶺になっているかどうかということですが、柳谷に溜まった水も、中の谷の水も、共に北に浸み出して小出川に流入していますから、この尾根は分水嶺にはなりえません。小出川が分水嶺を作るのは、お隣の藤沢の引地川との境で、この二つの川は別々の流域となっているので、遠藤あたりを分水嶺と呼ぶことが可能です。但し、この二つの川は、共に相模湾に流入していて、分水嶺というイメージからは程遠いものです。

分水嶺のイメージにぴったりと合うのは、左右に分かれた水が、片方は太平洋に、片方は日本海に流れ込むような処だと思います。それは北海道の宗谷岬から、鹿児島の佐多岬まで、一本の線でつなぐ事ができます(添付3)。ピンポイント的に一カ所を挙げれば、長野県茅野の白樺湖という人工湖の北側にある大門峠がそれです。南側に流れ出た水は、白樺湖から諏訪湖に至り、天竜川となって太平洋に出ています。北側に出た水は、20kmもある長い斜面を下って佐久平に至り、千曲川となって日本海に流れ込んでいます。大門峠から佐久平へ下る道は、武田信玄が川中島へ出兵したときに通った道で、白樺湖畔には、信玄が腰掛けたという御座石が遺されています。

新道橋への道の入口近くには、二十三夜塔の石碑が建っています(添付4)。陰暦の二十三夜に毎月、講中の人が集まって、飲食しながら月の出を待つ、という風流な習わしです。二十三夜というのは下弦の月で、月の出は大体夜中の12時です。俳人の長谷川櫂さんの本に、「俳句的生活」というのがあり、その中で氏は、中国から太陽太陰暦が伝わってくる前の日本には、満月を月初めとする生活リズムがあったと述べています。満月である旧暦一月十五日を小正月として祝うのもその一つですが、満月と新月との中間の二十三夜にこのような風習が出来たのも、その名残かも知れません。

草芽吹くなにやら床し峠茶屋

一寸峠
添付1
一寸峠標識
添付2