俳句的生活(169)ー古相模川の堤防ー

相模川は、今でこそ中下流は、1本の大河となっていますが、関東大震災以前は、下流は今よりも地盤が1.3m低く、入江と川筋が複雑に入り組んでいました。添付1~3は、明治・昭和・平成での、同じ範囲を表した地形図です。昭和と平成での一番の違いは小出川の流路です。平成では、一国から河口までが一直線で、湘南大橋の北側で相模川に流れ込んでいますが、昭和では、現在の産業道路の中島中学入口交差点で左に曲がり、柳島小学校の前を通過し、134号線を越えて、湘南大橋の南側で相模川に合流しています。

それが明治の地形図では、小出川は松尾村や柳島村の東端を流れている一方、現産業道路の南側から東海道に沿うように、東に向かって流れ、昭和での小出川の流路となる流れがあります。これこそが古相模川と呼ばれている流れであり、かっての相模川の本流の名残となっている流れです。

この古相模川の流れは、柳島の北側を鍬形のように蛇行し、柳島は常に氾濫の危険と向き合っていました。そこで柳島村は、古相模川の左岸に長大な堤防を築き、防ごうとしました。明治の地形図では、中島村と松尾村と印字された中間に、鍬形となっている川を囲むように、堤防らしきものが描かれています。柳島八幡宮の北側に位置していて、現在、堤防の上は道路となっています。添付4は、柳島八幡宮から見た現在の堤防です。この堤防のことは、江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」にも書かれていて、”堤防は古相模川に沿っている。長さ四百四十六間(800m)、高さ九尺(3m)”となっています。

相模川の本流が、どのような経緯を辿って現在の場所に収まったのかは、興味あるところです。相模川の左岸(茅ヶ崎側)に、馬入や須賀という平塚市に属する地域があることは、江戸時代のある時期に、氾濫の結果、馬入村と須賀村を分断するように本流が西に移動した証左です。将来、地質の年代測定の技術が高まり、こうした疑問が解ければと思います。

十文銭の渡しの跡や揚雲雀

明治時代の相模川地図
添付1
昭和30年代の相模川地図
添付2
平成の相模川地図
添付3
現在の古相模川土手
添付4