俳句的生活(164)-勘重郎堀ー

香川で義民として、今なお住民に慕われているのは、18世紀後半に名主を務めた三橋勘重郎です。彼は寛政二年(1790)頃、年貢の軽減を強訴したことにより処刑されるのですが、寛政に十数年先立つ安永年間(1772-1781)に、駒寄川より水を引く用水路を作り上げています。

駒寄川での取水場所は、今、茅ヶ崎歴史文化交流館が造られている処(添付1)から、少しだけ下流の処で、そこには案内板が掲げられています(添付2)。

用水路の跡は今、玄珊寺の西側に残っています(添付3)。このあたりの標高は9.5mで、取水した処が10.5mですから、約1kmの距離を標高差1mで流したことになります。この用水をもってしても、なお香川の旱魃を無くすことは出来ませんでした。近代では、昭和6年に大旱魃が起こり、住民は不味い外米で凌いだそうです。根本解決は、相模川左岸用水に依るもので、勘重郎堀より、なお東側の標高の高いところを通過する用水が出来て、漸く解決するに至ったのです。

添付3の堀跡の直ぐ西側は、大きな敷地のお宅で、表札は三橋となっていました。勘重郎と関係するお宅であることは間違いないと思います。

夕星(ゆうづつ)や煮凝つくる新世帯

駒寄川
添付1
勘重郎堀案内板
添付2
勘重郎堀
添付3