俳句的生活(161)-諏訪神社ー

茅ヶ崎の香川に、香川諏訪神社というのがあります。茅ヶ崎にはもともと、上諏訪神社と下諏訪神社の二つがありましたが、明治8年に、上諏訪神社が下諏訪神社に合祀されて、ひとつになったものです(添付1,2)。

明治になっての、国によるこの措置は、全国に2万以上ある諏訪大社の摂社に対して、全てに行われました。というのは、本社である信濃国一宮の諏訪大社で、明治4年に、それまで世襲であった五官祝(ごぐわんのほうり)という神職が廃止され、国による神社管理の移行に伴うものだったからです。

茅ヶ崎のような地方では、統合によって一社がなくなるというように、本当の統合がなされましたが、本社においては、今でも上社、下社として、独立した宗教儀式が行われています。今年は、7年に1度の御柱祭や式年遷宮の年ですが、時期はほぼ同じですが、別個に行われています。

明治4年以前の神職の体系は、下社と上社で異なっていました。下社では、大祝(おおほうり)が五官祝のトップでしたが、上社では五官祝のトップは神長官で、大祝はその上に立つ「生き神」という存在でした。上社の大祝は、古事記の国譲り神話に登場する建御名方の子孫とされ、中世以降は、信濃の国人衆であった諏訪氏が務めてきました。諏訪氏宗家は、武田信玄によって滅ぼされるのですが、諏訪御寮人(武田勝頼の母親)の叔父(諏訪頼重の弟)の系統が江戸時代を、一つは高島藩3万石の藩主として、もう一つが上社の大祝として生き続け、明治を迎えました。藩主の方は諏訪氏、大祝のほうは諏方氏となっています。

明治の世で、諏訪氏のほうは子爵となりましたが、解職された諏方氏のほうは、困難な時代を生きることになりました。2002年に、闘病されていた大祝家ご当主がお亡くなりになり、大祝家の家系は絶えることになりました。残された大祝の屋敷その他は、諏訪市により管理されることになったのが、せめてもの幸いです。

諏方氏の墓石は、神長官守矢資料館の裏の丘に祀られています。神長官守矢家ともども、氏子の協力を得て、保存が続けられていってほしいものです。この氏族の物語は、古事記の中でもとりわけロマン性が高いものです。諏訪湖の冬の名物詩の御神渡りの氷魁は、建御名方を祭神とする上社の男神が、建御名方の奥さんを祭神とする下社の女神に会いにいくときに出来るものだそうです。

茅ヶ崎下寺尾にあって合祀された上諏訪神社は、平成6年に社殿が再建されました。宗教法人としての認証は受けていませんが、神輿も作られて、浜降祭に参加するまでになっています。神社庁を越えてでの、氏子パワーによる復活です。

木遣り唄峡(かい)に木霊(こだま)す諏訪の春

諏訪神社
添付1
諏訪神社石碑
添付2