俳句的生活(160)-鎌倉殿の13人ー

私が初めて日本史というものに接した子供の頃、昭和30年代の前半でしたが、鎌倉北条氏の16人の執権の中で、良かったのは、3代泰時、5代時頼、8代時宗の3人だけで、残りの執権のうち、特に初代の時政と2代の義時は悪人であるとの烙印が押されていました。加えて義時は、父親の時政を追放した分、極悪人であるとの評価が一般的でした。戦前の皇国史観に基づいた教育で、承久の変で、朝廷に立ち向かったことがその原因であろうと思われます。新年度のNHK大河で、義時が主人公になっていますが、三谷さんの脚本で、どのように描かれるのか、楽しみです。

ドラマのタイトル「鎌倉殿の13人」というのは、2代目の鎌倉殿である頼家の世に、頼家の権力を剥ぐために、北条によって主導された13人の御家人による合議体制を指しています。この13人の中に、茅ヶ崎と寒川にゆかりある御家人が2人入っていますので、それを紹介するのが、本稿の主旨です。

そのうちの一人が、寒川町の一之宮に所領を持っていた梶原景時です。彼もまた、義経を懺悔した人物として、日本人の間で評判の良い御家人ではありません。しかし、こうした評価は全て、北条氏が権力を握っていた時代の書物によるもので、冷静に判断しなければなりません。

梶原の変というのは、将軍の後見人の座をめぐっての、梶原と北条との権力争いです。頼家の乳母(めのと)として、比企氏からの二人の他に、景時の妻もなっていました。こうした乳母を決めたのは、父親である頼朝です。乳母というのは単に乳を与えて育てるというだけのものではなく、成人後にも後見役として一族の繁栄が約束されたものです。比企尼は頼朝の乳母であっただけでなく、頼朝が蛭が島に配流されていた20年間にわたり、支援し続け、頼朝の絶対の信頼を得ていました。頼家の妻も比企氏の娘です。頼朝が嫡男の乳母として、比企氏のみならず、梶原氏からも選んでいたことは、頼朝の景時に対しての信頼がいかに厚かったかを物語っています。

一方、実朝の乳母は、政子の妹でした。頼家と実朝は10歳の開きがあり、時政としては早くに頼家の力を削ぐ必要に迫られていたのです。そこで先ず梶原を、次に比企を滅ぼして頼家の手足を奪い、頼家を修善寺に幽閉した、これが実際の権力闘争であったと思います。

鎌倉を追われた景時らは、一旦一之宮の館に移り、源義家(頼朝の高祖父)の弟を祖とする甲斐源氏の頭領を次の将軍に擁立しようと上洛を試みるのですが、途中、北条の追手の襲撃を受けて滅亡しました。

景時の一之宮の館址は、現在、一之宮天満宮となっています。石碑の脇には、今年度の大河ドラマの幟が掛けられていました(添付1,2)。

13人の中の二人目の御家人は、和田の乱のあと、大庭氏に代わって、懐島の領主となった二階堂氏です。二階堂氏はもともとは、藤原氏の流れをくむ京都での下級貴族で、文官として頼朝に仕えます。二階堂氏が懐島の領主でいたのは、和田の乱(1213年)から安達泰盛の乱(1285年)の間の72年間です。霜月騒動と呼ばれる安達泰盛の乱で衰退した二階堂氏は、本拠地を薩摩国に移し、薩摩二階堂氏として現在にまで存続しています。昭和で田中内閣の官房長官を務めた二階堂進は、その末裔です。

懐島は、大庭氏のあと、二階堂氏、大佛氏を経て建武中興を迎えますが、茅ヶ崎に住む我々からみても、二階堂氏や大佛氏の影が薄いのは、その事績が明らかでないのと共に、大庭氏のように、兄弟分かれて源平の戦を戦ったというようなロマンがないせいだろうと思っています。二階堂氏に残っているのは、龍前院の十基の石塔だけです。

夕星(ゆうづつ)や龍前院の凍し蝶

梶原景時館跡の碑
添付1
説明板
添付2