俳句的生活(144)-幕末のコレラ禍ー

日本は小さな島国であるために、日本自らが感染症の発生源になることはなく、過去の感染症は、全て外国からもたらされたものでした。一例としてコレラを挙げれば、メーデルフォールト(1829~1908年)というオランダ人医師が著した「日本滞在見聞録」で、安政五年(1858年)の大流行は、”1858年7月に、ペリー艦隊のミシシッピー号が、支那から日本にコレラ病を持ち込んだ” ものであると記述しています。

人類史上、最大のパンデミックは、14世紀におけるペストでした。数十年に亘る災禍で、ヨーロッパの人口は半減し、元帝国はペストによって滅亡したと言われています。ところが日本は無傷でした。その理由は、13世紀後半の元寇によって、大陸との交流がロックダウンされた為でした。15世紀になって、足利義満が勘合貿易で交流を再開した時は、幸いにもペスト禍は終息していて、日本はセーフだったのです。

コレラに話を戻すと、日本で最大の流行となったのは、鎖国を解き、開港して数年を経た文久二年(1862年)のことでした。患者の数は56万人を超え、江戸だけで7万3千人の死者が出た、と言われています。大阪適塾の緒方洪庵が、幕府の要請で江戸に向かい、そこで客死したのもこのコレラ禍の中でした。

当然のことながら、コレラ禍は茅ヶ崎にも及んでいます。行谷(なめがや)の宝蔵寺という曹洞宗のお寺の山門の入口に石碑(添付1)があり、そこには次のような刻みが彫られています。

百万遍供養塔
狐狼痢除
當所念佛講中

狐狼痢はコロリとよみ、コレラのことです。右側面には、文久二年と、創られた年が刻まれています。

どうしてこの石碑が、宝蔵寺に置かれているのかが疑問だったのですが、幸いにして、住職さんのご母堂様から説明を受けることが出来ました。当地には、念仏講というのがあって、昔は講中の人の家を持ち回りで、月始め(1日)と中日(15日)に数珠を回しながら念仏を唱えていたそうで、この石碑を創ったのは、その人たちであり、コレラの退散を念じたもの、ということでした。今は、念仏講の催しは、年2回のお彼岸のときに、宝蔵寺で行われるようになっているそうです。コレラは飲み水を媒介として感染する病気で、患者は、小出川の水を利用していた地区に多かったようです。行谷にも、直ぐ傍に小出川が流れています。

幕末のコレラ禍から30年余り経た日清戦争において、防疫を担当したのは後藤新平でした。彼は、戦地から帰還する20余万の将兵を、直ぐには下船させず、一旦広島湾にある似島(にのしま)に創った検疫所で十分な検査をした上で、宇品に上陸させました。これによって当時大陸で流行っていたコレラの国内への流入を最小限に食い止めました。このことを、ドイツ皇帝のウイルヘルム2世は絶賛したそうです。

宝蔵寺は小出七福神を祀っている寺の一つで、ここには大黒様が祀られていました(添付2)。

大銀杏なほ天を衝く谷戸の寺

添付1 宝蔵寺の狐狼痢除供養塔
添付2 宝蔵寺の大黒天像