俳句的生活(142)-茅ヶ崎の寺子屋ー

幕末から明治初年にかけての、茅ヶ崎の寺子屋は、20数か所のものが確認されています。村数の24に合致する数ですが、実際にはもっと多くの寺子屋があったであろうと思われます。大半は、お寺を使っての僧侶によるものですが、残りは村の名主や、幕府や藩に仕えていた士族によるものです。俳句的生活(91)で、今宿の松尾神社にある臺小学校の石碑を紹介しましたが、そこに刻まれている中川という元越後藩士が今宿に来て私塾を開き、子供を教えていたということが、ずっと気になっていました。今回中川氏のことが多少わかりましたので、それを紹介しようというのが本稿です。

中川氏の前に語っておかなければならないのは、上国寺に墓石があった中山栄蔵という人です。墓碑には、もと幕府の吏僚で、上国寺付近で近所の子に学問を18年に亘って教えたとし、安政四年に71歳で死亡した、と記されています(記されていました(注))。中川氏は、この中山栄蔵の後をついで、子供の教育をしたということです。

中川氏(中川清茂)については、昭和3年に編纂された「茅ヶ崎町鶴嶺郷土誌」に、ある程度のことが記載されています。彼が今宿に居を定めたのは、本村の伊藤清兵衛の紹介によるものとなっています。おそらく本村の名主であった伊藤里之介の一代前の親族であったと思われます。今宿での居宅の場所は、昭和3年の郷土誌では、今(昭和3年)の斎藤丈二氏宅となっています。その場所がどこか、特定したかったので、信隆寺に電話を入れて、過去帳を調べてもらい、現在、今宿交差点の南側にある介護施設あうんの東側に隣接したところであることが判明しました。昭和3年の郷土誌では、中川氏の居宅の広さを、奥行き五間、間口十四、五間としていて、現在の斎藤氏の宅地スペースとも矛盾がありません。明治初年の今宿の寺子屋の場所が、自宅からもすぐ近くであったことに、感慨を覚えます。

中川氏の授業は、武士的気概に溢れ、教科は頼山陽の日本外史にまでおよび、鞭声は居宅の外にまで響いたということです。教場はその後、明治5年に仏国寺(廃寺:現在の珈琲館の東側の駐車場)での学舎、明治10年には松尾神社の臺小学校と変遷していきました。

(注)中山栄蔵の墓碑が見つからないので、住職さんの門をたたき、その旨を告げると、墓地を案内してくださり、かって代々の住職の墓地の一角にあったと思われるが、平成24年に、今までの住職の墓石を統合し新たに墓石を作ったので、中山氏の墓碑も、新しい墓石(添付1)の下に埋まっているであろうとのことでした。中山氏の墓石を記したのは、三十一世日久で、墓碑にその名が記されています(添付2)。

粛々と鞭声の講夏の夜

上国寺の墓碑
添付1 上国寺住職統合の墓碑
日久聖人の墓誌
添付2 三十一世日久聖人の墓誌