俳句的生活(141)-茅ヶ崎村域の境界線ー

昨日のブログで、茅ヶ崎村域内の東海道を、松林中学入口交差点から西側としましたが、この地点がどのようにして決められたかが、本稿の主題です。

茅ヶ崎村の東隣は小和田村で、その村境は現在、ラチエン通りとなっています。その線引きを行ったのは幕府の評定所で、茅ヶ崎村と小和田村の漁場争いを仲裁するためのものでした。方法は、菱沼村長福寺の西にある手白塚から姥島(烏帽子岩)に直線を引き、その右左を茅ヶ崎村と小和田村としたのです。なぜ東海道の一点から姥島に線を引かなかったかということですが、両村とも、東海道の北側にも村域があるためでした。

手白塚が姥島にたいして、何故もう一方の境点に選ばれたかということですが、その答えは、手白塚が周囲よりも標高が高く、姥島まで遮るものがなく見渡せたからです。現在の地形を、国土地理院の地図で標高を計ってみたところ、手白塚が16.7mであるのに対して、一国とのクロス点である松林中学入口交差点は12.8mで、鉄砲道とのクロス点の松ヶ丘交差点は8.5mでしかないのです。

今日、手白塚の写真(添付1)を撮りに出かけたところ、偶然にもその周囲の農地を所有されている方と話すことが出来ました。祖父の代までは小高い山であったとのことで、現在は山を削って宅地と農地になったということです。その方は、ハウスで春菊を育てていて、その緑が余りにも新鮮であったので、写真を撮らせて貰いました(添付2)。

幕府が下した裁定文と裁定図は、茅ヶ崎市文化資料館に所蔵されているのですが、来春に新しい館がオープンするまで、閲覧はお預けとなっています。裁定が下されたのは寛文4年(1664年)で、実際に道になったのは、ずっと後のことです。明治15年の測量の地図にはまだ載っていません。今昔マップでは、1900年前後には道らしきものが出来ていますので、明治15~30年にラチエン通りの原型が出来たものと考えています。

郷境は我に関せず都鳥

手白塚
添付1 手白塚
春菊
添付2 ハウス栽培の春菊