俳句的生活(97)-金剛院ー

一国の「南湖入口」交差点を南に入った直ぐのところに、金剛院はあります。円蔵寺の末寺でありますが、第六天神社の別当寺でもありました。別当寺というのは、明治以前に神社と一体化していた寺で、そこに別当という宮司よりも格上の役職が置かれていた寺です。江戸時代には、寺が戸籍管理という行政の一翼を担っていて、寺の方が神社よりも、格上として扱われていたのです。

ところが、明治初年の神仏分離令により、今度は寺の方が、虐待を受けていくことになりました。金剛院も、第六神社から分離され、現在の場所というのも、その時に移されたものなのです。鶴嶺神社の別当寺であった常光院は廃寺とされましたが、幸いにして、金剛院はしぶとく生き残っていきます。茅ヶ崎村役場はずっとこの地に置かれましたし、茅ヶ崎町役場も、最初の3年間は金剛院でした。また、明治6年の小学校も、茅ヶ崎村では金剛院の中に出来ました。もし、茅ヶ崎での駅が南湖に出来ていれば、金剛院は南湖駅まえの寺として、今以上に脚光を浴びる寺となっていたことでしょう。

金剛院が郷土史家を引き付けるもう一つの理由として、そこにある重田家の墓石を挙げることができます。現在の墓石は、平成15年に改修されたものですが、そこには江戸屋初代の父親から始まって、初代から11代までの墓誌が刻まれていて、多くのことがそこから判って参ります。初代の父親は、高崎藩士だったそうで、奥さんを本陣の松屋からもらっています。神輿の事件で鶴嶺神社に石垣などを寄進した初代は、その事件の7年後の宝永6年(1709年)に50歳で亡くなっています。八郎左衛門三治という名前です。天保2年に八雲神社を再建した人は6代目で、八郎左衛門栄廣という名前、神社再建して16年後の弘化4年(1847年)に51歳で亡くなっています。第六天神社で保管されている茶屋町の家並図に記載されている金次郎さんという人は7代目で、文久3年(1863年)35歳で亡くなっています。あの家並図は、明治維新よりほんの少し前のものであったことが、判ります。更に戒名についてですが、江戸時代には、武士以外は、信士、信女でなければならなかったのですが、男は二代目より居士、女は三代目より大姉が使われています。院号は初代から付けられています。鶴嶺神社への石垣・石段・手洗い石の寄進には莫大な費用が掛かっているはずですから、いかに初代において大成功を収めたかということが推測できるのです。

閻魔堂の扉を開く彼岸かな

金剛院
金剛院