俳句的生活(96)-八雲神社ー

江戸時代の23村中で、茅ヶ崎村が断トツの村であったことは、(84)の茅ヶ崎町が生まれるところで述べましたが、茅ヶ崎村を構成する本村・十間坂・南湖のなかで特に大きかったのは南湖で、その規模は他村の一村以上のものでした。茅ヶ崎町が出来るとき、町名をどうするかということで、南湖の人達は南湖町とするように主張しましたが、既に駅が茅ヶ崎駅となっていたために、その主張は通りませんでした。駅を作るとき、その場所を、南湖の人達は当然南湖にと主張したのですが、丁度その地はカーブしていて、駅には適さないという残念な経緯があったのです。江戸時代には、現在の茅ヶ崎市の市域の中心は、茶屋町=南湖 であったため、南湖中心の意識は相当長く続いていたのです。

八雲神社はそうした南湖の総社です。境内には八雲神社の由来が掲げられていますが、ここには、南湖ではなく南郷となっています。東西南北が使われるこうした時の郷は、大きな神社を起点としているもので、ここでは鶴嶺神社の南側であるという地名です。南湖は音を合わせて後から付けられた地名です。中国の湖南・湖北に洞庭湖があるのと違って、茅ヶ崎にはどこにも湖はありません。

次に、宝暦12年に、当地(茅ヶ崎村)が旗本領から幕領に変更になったことが記されています。宝暦12年(1762年)という年は、領主の変更が多くなされた年で、菱沼村と小和田村も、旗本領から幕領に替わっています。一方、下町屋村、松尾村、今宿村は幕領から旗本領になりました。(今宿村は、幕末までに一部が幕領に戻っています。)このような更迭がこの年どうして多発したのか、興味あるところです。

茶屋町江戸屋の、重田八郎左衛門についても、天保2年に、彼により社殿の再建がなされたと書かれています。重田家は皆が八郎左衛門を名乗るので紛らわしいのですが、この重田八郎左衛門は6代目の方です。神輿事件を収拾したのは、初代の八郎左衛門で、南湖にまだ神輿がなくて、鶴嶺神社の神輿を担いでいた時に、祭が終わっても南湖から神輿が鶴嶺神社に戻されないという事件を収拾した人です。鶴嶺神社に詫びを入れた際、石垣・石段・手洗い石を神社に奉納したということで、それらがどのようなものか、鶴嶺神社の宮司さんに伺ってきました。初めは石垣の一部程度のものかと思っていたのですが、宮司さんの説明では、本殿を囲む石垣と石段全てであったそうです。当時の鶴嶺神社の本殿は、法の部分が石垣になっていなかったとのこと。江戸屋の財力、初代にして恐るべしです。

神明の聳ゆる千木や鳥雲に

八雲神社1
八雲神社
八雲神社2
八雲神社の由来
鶴嶺神社の石段
重田八郎左衛門献納の石垣と石段