俳句的生活(95)-浜降祭(2)ー

前稿のようなことが天保時代に起こり、以降、寒川神社ではお礼参りとして、鈴木孫七を御旅所神主として、南湖の浜に神輿を渡御し、禊を受けるようになりました。一方、鶴嶺神社ではそれよりもずっと以前より、南湖の浜で禊を受けていました。古くは鎌倉幕府成立の直前、建久二年(1191年)に「禊祭り」が行われたとする記録があります。こうした経緯より、浜降祭の中心は鶴嶺神社であると思ってしまうのですが、明治になって神社の格付けが行われ、寒川神社が鶴嶺神社より格上とランクされたために、複雑なことになってしまいました。

明治6年、国は寒川神社を国幣中社としたのに対して、鶴嶺神社に与えたのは村社というものでした。江戸時代に幕府から与えられた朱印地が、寒川神社が100石であるのに比べて、鶴嶺神社は7石でしかありませんでしたから、このランク付けは仕方無いものかも知れません。悪いことは、鶴嶺神社は寒川神社の摂社となってしまったことです。企業でいえば、本社と支店の関係ですから、本社の社長に向かって支店長が何かを言えるはずがありません。浜降祭においても、これより寒川神社が主導することとなりました。

ところが明治10年、鶴嶺神社は摂社の位置を脱することに成功します。これより一層、浜降祭における両神社の関係は、微妙なものとなりました。この微妙な関係は、浜での神輿の着座する場所等々、現在までも続いています。現在、浜降祭の主催者は、寒川神社総務課に置かれている「浜降祭実行委員会」で、協賛は国交省関東事務局となっています。茅ヶ崎市の名前は出てこないのです。

しかしながら、浜降祭の行われている場所は茅ヶ崎海岸であり、寒川町の神社からの神輿は4基であるのに対して、茅ヶ崎からは30基を超えるものとなっています。伝統を重んじる儀式ですから、急にはいかないでしょうが、茅ヶ崎市はもっと考えなければいけないのではないでしょうか。

鈴木孫七が網にかけた神輿は、一旦菅谷神社の神輿蔵に収納され、引退状態になっていたのですが、平成10年に修復がなされ、現役復帰しています。天保時代の由緒ある神輿に、もっとスポットライトをあてて良いのではないでしょうか。

穢れ落とし足取り軽き神輿かな

昭和23年の浜降祭 先頭鶴嶺、次が寒川
茅ヶ崎の昔話より