俳句的生活(94)-浜降祭(1)ー
南湖の八雲神社の近くに、鈴木孫七を代々名乗る家があります。外からみましても、庭には数本の松の大木が聳えていて、いかにも由緒あるお宅にみえます。現在のご当主は十代目ということで、浜降祭には、寒川神社の御旅所の神主を務め、浜でのセレモニーの主役となっています。
天保の時代にまで遡ることになりますが、大磯での国府祭に、寒川神社の神輿が出向いていた時の帰り、相模川の四之宮の渡しで、前鳥神社の氏子の乱暴により、神輿が川に落ち、折からの梅雨の増水で、神輿は相模湾へと流されてしまいました。狼藉を働いた四之宮の氏子たちは、処罰を受けることになり、初めは打ち首であったのが、刑の当日、髷を切ることだけの処断で済みました。代官であった江川太郎左衛門英龍の判断であったそうです。
慌てたのは寒川神社で、300石の報奨金をだして捜索依頼することになりました。寒川神社が徳川幕府より神領として与えられていたのは100石でしたから、いかに高額の報奨金であったことが判ります、現在価値でいえば、4500万円になります。これを運よく(?)南湖の沖で網にかけたのが、漁師の、初代鈴木孫七であったのです。
孫七は、神輿を海から引き揚げ、自宅の裏庭で保管することになるのですが、地面にそのまま置くのは恐れ多いということで、盛砂をして、ハマゴウと海藻を敷いて、その上に安置しました。これが現在、浜降祭で、寒川神社の神輿が着座する場所だけ、盛砂され、ハマゴウと海藻が敷かれる由縁となりました。ハマゴウは、以前はどの海岸でも取れたそうですが、現在はそうでなくなり、今は鈴木孫七家の庭で、浜降祭のこのために、栽培されているそうです。
孫七家には、御旅所神主になってから祭礼の都度、寒川神社から使者が来て、準備ばんたんの依頼がなされるようになりました。孫七家の方は、祭礼では、烏帽子をかぶり、麻上下を着用し、刀をさした装束で、最初に玉串を奉てんする役を担ったそうです。
寒川神社に戻された神輿は、3年後には、摂社である菅谷神社に譲渡されることになりました。その時の譲渡金は15両(約200万円)であったそうです。寒川神社から鈴木家に300石が実際支払われたかは不明で、記録には、いくばくかの神領が譲渡されたとなっています。
暁にこぐ自転車や浜祭