俳句的生活(91)-明治の小学校ー

今宿の松尾神社の境内に、臺小学校跡 と刻まれた石碑が置かれています。裏面には沿革が記されていて、今宿では明治初年、越後藩士の中川清蔵という人が私塾を開き、子供たちに読み書きを教えた、となっています。臺小学校は、明治10年から42年まであった学校で、政府による学制が整備されつつある時代のものです。臺小学校が、どのようにして生まれ、どのように次に繋がっていったのかを調べてみました。

中川清蔵と同じ時期、萩園では和田篤太郎が同じような私塾(寺子屋)を自宅の一室で開いていました。こうした私塾は、親の判断で必要と思ったところの子供だけが、読み書きを習ったものでしたが、そこに明治政府は、明治5年、国民皆教育ということで、全国に小学校をつくり、義務教育としたのです。この布告は、岩倉使節団が欧米を廻っている間に、西郷たちの留守政府から出されたものです。問題は、学校の建設・運営の費用は、全て村の負担で、しかも全員就学、月謝まで払わなければならないということでした。結果として、今宿では仏国寺(今は廃寺)に、萩園には常顕寺に学舎が出来ることになりました。

臺小学校は、この今宿と萩園の二つの学舎が合併して、松尾神社の境内に出来たものです。明治10年のことでした。建築資材は、廃寺となっていた鶴嶺八幡宮の常光院を解体した古材があてられました。建前は皆教育ということでしたが、実体は大きく異なっていて、女児の就学率が著しく低く、また、途中で修学を辞めるのも、1/3にのぼるというものでした。

明治22年、今宿、萩園は他の村と合わさって、鶴嶺村となりました。この時点で鶴嶺村には、臺小学校と円蔵の懐島小学校の二校でしたが、共に尋常科課程しかなく、高等科課程を作る必要があり、そこで明治33年、現在の鶴嶺小学校の場所に、高等小学校が設立されたのです。そして、鶴嶺村が茅ヶ崎村と松林村と合併して茅ヶ崎町となった翌年の明治42年、臺小学校と懐島小学校が高等小学校と合併して、町立尋常高等鶴嶺小学校が創られました。

町立の尋常高等小学校は、鶴嶺の他に、茅ヶ崎、松林、小出の地区にも作られました。茅ヶ崎町に合計四校で、太平洋戦争が終わるまで、続くことになりました。

現在、茅ヶ崎市には人口24万に対して、19の小学校があります。明治40年代、茅ヶ崎は人口1万7千人という過疎の町で、それに対して4校を持ったということは、教育重視の町であったと言ってよいのではないでしょうか。

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臺小学校