俳句的生活(89)-幕藩体制ー

前稿で、幕府の税徴収の最前線組織である代官について綴りましたので、本稿では、その根幹をなす幕藩体制というものに、思いを巡らせてみたいと思います。

江戸時代後期、大まかに言って、全国の米の生産量は4000万石、そのうちの1割、400万石が幕領での石高でした。年貢としての収入はその半分の200万石で、現在価値では、約3000億円が幕府収入となるような 財政規模でした。前稿でも述べましたように、この3000億円からは、知行地を持たない幕臣の公務員的費用や、将軍家の生活費を賄わなければいけませんから、災害からの復興資金や新規事業への投資などは、細々としたものにしかなりえず、まして軍事費などには手が回るはずがありませんでした。

家康が作り出したこの体制の最大の欠陥は、幕領以外、残り9割の地域の経済に対して、なんら租税を課すことをしなかったことにあります。大名に対しては、参勤交代や各種の普請を命じることで、支出を増やすことは施策としましたが、肝心の租税を課することはせず、この点では、もろに封建制度であったのです。家康は、武家諸法度などによって、大名を完封できるとしたのでしょうが、各地域を完全に大名に任す封建制をとるのであれば、大名領国を会社のような法人として捉え、今でいう財務諸表的なものを提出させて、監視すべきであったと思っています。

徳川の幕藩体制を、西欧の中世=封建時代ならびに、ルネサンス以降の絶対王政と比較してみることは、興味深いことです。徳川の幕藩体制は、自らが封建諸侯のひとつであり、他の封建諸侯の領土での経済にたいして、課税措置を持たなかったことでは、中世ヨーロッパの封建時代の王と同じです。日本の違いは、少なくとも幕末までは、諸侯にたいしての睨みが効き、改易を含めた大名への処断が出来たことです。この押さえを以て、徳川時代のことを幕藩体制と称しています。

絶対王政の代表的な国として、フランスのルイ王朝があります。ここでは、全国の人民に対して、各種の税を課していて、貴族=地方の封建領主は存在していましたが、封建制からは脱しています。また、”朕は国家なり”というほどに、専制的権力を持ちました。こうしてみますと、日本の幕藩体制というのは、西欧の中世と絶対王政の間に位置していることが判ります。

日本でも、田沼意次のように、商工業に税をかけることが一時的に行われたことがありましたが、短命に終わりました。よしんば長期政権として実行できたとしても、土地本位の旗本の知行地ではどうするのか、というような問題があり、封建制度の限界が見えてきます。

天保時代の茅ヶ崎での幕領の石高は、1626石でした。こうした小さい石高の集積が400万石でした。これでは、財政改革に成功し、武力を蓄えた薩長に屈したのも、避けられない流れであったかと思います。

中世の秋や摩天の大聖堂

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ウィキペディアより引用「ミラノ大聖堂外観」