俳句的生活(88)-韮山代官ー

江戸時代、茅ヶ崎23村は、旗本の知行地と幕府の直轄地より成っていましたが、その支配者が変更されていくことが、ままありました。今宿村を例にしますと、天保のころは、一人の旗本の知行地でしたが、大政奉還の時点では、一部が幕領に変っています。幕領となっているところを東よりピックアップしますと、小和田村、茅ヶ崎村、下町屋村、今宿村となり、東海道に沿っては、幕領が占めています。これは偶然のことなのか、あるいは幕府が街道筋を重要視したのか、どちらかでしょう。

茅ヶ崎の幕領は、伊豆韮山にある代官所の管轄下にありました。韮山代官の管轄地域は、伊豆、駿河、相模、武蔵の四か国に及ぶもので、幕末からは更に甲斐が加わりました。

代官所というものは、幕府が旗本から任命した代官が一人いて、その下に2ランクの吏僚が付くという構成でした。上の吏僚には御家人が就き、下の吏僚は現地雇いでした。幕府は代官の報酬を150俵(=60石、1石=1両=15万円とすると、900万円)と決めていて、吏僚は、御家人は30俵5人扶持、現地雇いは3俵2人扶持でした。旗本および御家人の役職としては、どちらかといえば低いものといってよいでしょう。

韮山代官所の場合は、天保10年のデータですが、全体の吏員は28名で、それだけのメンバーで、4か国にまたがる幕領の年貢徴収の業務を担っていました。各地域に出張陣屋を置き、そこに数名の吏僚が常駐し、村役人と連絡を取りながら業務するという形態です。相模の陣屋は今の大井町にあって、荒川番所とよばれていました。韮山代官所管轄下の石高の合計は、8.4万石で、一人あたり3千石というものです。五公五民とすれば、現在価値にして、約60億円の税収で、吏員一人あたり約2億円ということになります。全国から集まるこうした税収が、知行地を持たない幕臣や大奥を含めた徳川家への支払い、そして残りがいわゆる公儀としての予算となりました。

韮山の代官は、代々世襲で、江川太郎左衛門を名乗っていました。その中で有名なのは、江川太郎左衛門英龍 という韮山に反射炉を造った人です。彼が茅ヶ崎と関わるのは、佐々木卯之助事件の発端となる茅ヶ崎村の検地を、彼が代官であるときに行ったことです。英龍は清廉潔白な人物でしたから、いくら農民の為であるとはいえ、見逃すことは出来なかったのでしょう。

代官という役職は、幕府が任命したサラリーマンですから、通常、代官は自分の出世のために、米の出来不出来に関わらず、決められた年貢米を徴収しようとしました。そこが旗本が知行地を持つ場合との違いで、旗本は一国一城の主で、こと年貢徴収については上司というのが居ませんから、村民と苦楽を共にすることが出来たのです。維新に際しての、柳島村のような、領主と名主の濃密な関係を、幕領では見ることがありません。

あすなろや天城を洗ふ初時雨

(注)天保10年の韮山代官所のデータは、国税庁税務大学校租税資料室の調査を基にしたものです。

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ウィキペディアより引用「韮山反射炉」

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江川英龍 – 相賀徹夫 編『日本大百科全書 第3巻』 小学館、1985年4月20日、401頁, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用「江川英龍」