俳句的生活(87)-江戸屋ー

俳句的生活(62)で、第六天神社に保管されている茶屋町の家並図を紹介しましたが、それを書き取ったものが、茅ヶ崎市史に載っていましたので、江戸屋および近辺の家並を添付します。これを見てみますと、江戸屋は規模において、隣近所のお茶屋さんと、相当の開きがあることが判ります。本陣の松屋は江戸屋と同じ並びで、11軒先の西にありますが、規模は江戸屋とほぼ同じになっています。明治天皇の東幸で、江戸に赴く時の休憩地は松屋でしたが、1か月後に京都に戻る時は、江戸屋で休息しています。

江戸時代、東海道を西へ向かう旅人が茅ヶ崎を通過するのは、だいたい2日目のことです。例外的に、伊能忠敬のように測量をしながらの通行は、もっとゆっくりで、茅ヶ崎では江戸屋に宿泊しています。彼の宿屋での宿泊は、夜は必ず昼間の測量の整理と、翌日の測量の計画を立てることに費やしています。忠敬が江戸屋に宿泊したのは、享和元年(1801年)4月22日のことで、その夜は、柳島の村役人と、翌日の測量についての打ち合わせを行っています。彼が遺した「沿海地図大図」には、戸田五助知行所 柳島村 と、領主旗本の名前までが記されています。

伊能忠敬と同じ年、享和元年に江戸屋に立ち寄った文人に、太田南畝(蜀山人)がいます。その時の様子を「改元紀行」に、”都人のあざらけき魚の鱠(なます)くひたりとて、ののめきいふ南郷(湖)立場これなきとききて、名もなつかしき江戸屋といふ家にいれは、げにあざらかなるひしこといへる魚の鱠もて来れり” と書いています。江戸屋という屋号は、江戸の人を呼び込む良いネイミングであったようです。享和元年は、今でいえば、19世紀の1年目ですが、南畝にも元号が変わったという意識があって、旅行したものだと思われます。

江戸屋の家並図に記されている金次郎さんという人が、どの元号の時の人であったのかは、文献資料には現れていません。もし機会があれば、重田家の方に、何世代前の人であったのかを伺ってみたいと思っています。

都鳥河岸の夕日をはばたけり

江戸屋の地図
江戸屋の家並図 茅ヶ崎市史5より