俳句的生活(85)-草燃ゆるー

NHKの大河ドラマに、「草燃える」という関東武士を扱った番組がありました。永井路子さんの複数の小説をベースにドラマ化したもので、昭和54年に放映されました。頼朝の挙兵から和田の乱を経て、承久の変までを扱ったドラマです。全編を通しての主人公は、松平健さんが演じた北条義時で、明治以来、足利尊氏以上に逆賊としての扱いを受けていただけに、新鮮な気持ちでドラマを視たものです。

義時は、北条氏の2代目の執権で、頼朝が死亡した後の、御家人間の権力闘争を勝ち抜いた人です。そしてその最後の相手の御家人は、侍所別当であった和田義盛で、これに勝つことにより、執権、政所別当、侍所別当を占めて、独裁体制を築き上げたのです。三代将軍として実朝がいましたが、全くの非力でした。そもそも頼朝からして、自前の手勢は全く持っていなく、関東武士団に擁立された将軍でした。御家人達にしてみれば、一所懸命が信条でしたから、自分の地所を安堵してくれれば、源氏であろうが北条であろうが、関係なかったのです。

和田の乱は、茅ヶ崎には大きなインパクトがありました。懐島では、乱の3年前に大庭景義が72歳で亡くなり、子の景兼が家督を継いでいましたが、その彼が乱に連座して、放逐されてしまったのです。なぜ連座してしまったかといえば、景義の祖父の大庭景継は、一方で、和田義盛の母方の祖父でもあったからです。そうした縁戚関係のために、連座の咎をかぶせられてしまったのです。いち早く北条支持を鮮明にしていれば、問題は起こらなかったことでしょう。どこかの党の総裁選びに似通っています。

皮肉なことに、懐島は大庭氏なきあと、和田氏の本家筋である三浦氏に任されることになりました。義盛が挙兵するに当たって最も頼りとしたのは、本家筋である三浦氏でしたが、時の当主である三浦義村は、当初、起請文まで書いて、挙兵への同心を約束したのですが、変心して義盛謀反を義時に通報してしまったのです。懐島は最終的には、乱のあとの論功行賞で、義村の貢献をどう評価するかの評定に加わり、義村を支持した二階堂氏にゆだねられることになりました。二階堂氏は安房で、三浦氏と緊密な関係にあった氏族です。

その二階堂氏も、8代執権の北条時宗の時に没落し、以後懐島は、鎌倉幕府滅亡まで、北条一門である大仏氏が支配することとなりました。

大庭御厨は、景義の祖父である大庭景継が伊勢神宮の御厨下司を務めていた時期、頼朝の父親である源義朝の侵略を受けたことがあります。いくら伊勢神宮への寄進荘園といっても、大きな武力の前には立ち向かえない一例です。

最近知ったことですが、中先代の乱を起こした北条高時の遺児時行が、漫画の主人公にもなって話題を得ているそうです。亡国の王子が国を再興するという筋書きに沿っていて、ぴったりのテーマだそうです。時行は南朝に降伏し、北条氏は朝敵から外れたのですから、逆賊あつかいするのは、理に適っていません。義時もリアリスティックな政治家として、再評価されるべきではないでしょうか。

北条氏の血統は、16代執権の赤橋守時の妹である登子が、尊氏の妻になったことで、鎌倉公方となった尊氏の次男の系統を通じて、現在にも引き継がれています。磯田少年ではありませんが、系図を見ていくことは、楽しいことです。

化粧馬享保の秋を疾駆せり

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wilkinson777が撮影 – 承久記絵巻 巻第2, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィキペディアより引用「北条義時」