俳句的生活(84)-初代茅ヶ崎町長ー

茅ヶ崎には江戸時代、23の村がありましたが、明治以降、何回かの合併を経て、最終的に昭和22年、現在のような茅ヶ崎市となりました。この合併プロセスにおいて、常に中心に存在したのは、茅ヶ崎村でした。天保時代のデータですが、茅ヶ崎村は他の22村に対して、戸数、面積、石高に関して断トツの存在でした。一例として戸数を挙げると、1位の茅ヶ崎村が486戸であるのに対して、2位の萩園村は115戸でしかありませんでした。

当初の合併は、複数の村が寄り集まって、一つの村が出来るというものでした。例えば鶴嶺村というのは、今宿村、萩園村をはじめとして、12村が集まったものでした。松林(しょうりん)村は、室田村、高田村をはじめとして、7村が集まったものです。ところが茅ヶ崎村だけは、一つの村のままで、鶴嶺村と松林村と合併して、茅ヶ崎町となっていったのです。

それほどに大きな存在の茅ヶ崎村でしたから、初代茅ヶ崎町長は、茅ヶ崎村長がなるべくしてなりました。当時町長は、選挙によって選ばれるのではなく、国や県の意向を踏まえつつ、村の指導者の話し合いで推挙されていきました。新たにできた町議会では、形式的に承認を得るだけというものでした。このようにして生まれた初代茅ヶ崎町長が、伊藤里之介(さとのすけ)です。

伊藤家は茅ヶ崎村の豪農で、代々名主を務めてきた家です。明治になり、名主制度が廃止され、代わりに戸長というものを経て村長が出来たのですが、初代村長には、当然のことながら、元名主であった伊藤里之介が就いたのです。

伊藤が村長および町長を務めた期間は、20年以上のものです。この間、茅ヶ崎駅の誘致、相模鉄道の創設、純水館という製糸工場、電灯会社、茅ヶ崎海岸の海水浴場、別荘地のプロモーション等々、茅ヶ崎の近代化に関わる多くの事業を手掛けました。明治以降、現在までの茅ヶ崎の行政マンとして、彼の右に出る者は皆無と言ってよいでしょう。

潮浴みて太古の貝を拾ひけり

伊藤里之助
伊藤里之助 ヒストリア茅ヶ崎 7号より