俳句的生活(78)-中村楼ー

高砂通りを海岸の方へ進んでいくと、右側に、恵泉幼稚園、茅ヶ崎公園、市営野球場があります。明治30年代、この場所には、中村楼という3万坪の「海水浴御料理旅館」が営まれていました。3万坪というのは、柳沢吉保の下屋敷であった六義園を凌駕する広さです。そして、明治40年から大正12年の関東大震災までは、個人の別宅として使用されていました。

茅ヶ崎の中村楼は、両国の中村楼の支店です。本店の中村楼は隅田川に面した江戸期からの屈指の料亭で、政治家や軍人たちが度々会合として使用していました。乃木希典の日記には、明治17年1月19日、山縣中将との会食が記されています。二階の広間は、200人が入れる程の広さで、その天井は塗物となっていました。そうしたこともあって、ここでは書画展が度々催されていました。

茅ヶ崎の支店は、明治32年、茅ヶ崎館と同じ年に開業しました。駅が開業し、海水浴客をターゲットとした営業で、海は直ぐ傍、絶好のロケーションでした。洋食も提供していて、團十郎の孤松庵では、ハヤシライスを出前注文したという記録があります。この時期、茅ヶ崎館では川上一座による「オセロ」が上演されるのですが、その舞台稽古は、中村楼で行われました。

この中村楼ですが、明治40年に本店が、東京美術倶楽部に売却されたことに伴い、閉店となりました。その後の経緯は調べ切れていないのですが、所有者が鴻池銀行という銀行になっていることにより、おおよその事は見当がつきます。鴻池というのは、江戸期の大阪での豪商ですが、明治に入り、なかなか時流に乗れず、原田二郎という人物を、井上馨の推挙で事実上のCEOとして迎え入れ、再建を果たすことになります。鴻池が盤石になったことを見定めて原田は引退するのですが、この時鴻池は原田に、慰労金として50万円と、茅ヶ崎の中村楼を贈与します。大正8年のことで、原田は中村楼を一部改修して、4年後の関東大震災まで別邸として使用しました。

関東大震災が起きた当日、原田は茅ヶ崎のこの別邸で書見をしていました。使用していた机が、その日はたまたま頑丈な紫檀のものであったので、原田はその机の下に潜り込み、辛くも一命をとりとめたとのことです。

原田はその後、原田積善会という 公益にかなう団体を助成する財団を作り、子供がいなかったことにより、個人の財産1020万円(現在価格で500億円)全てを、財団に投じました。財団は100年後の今も存続していて、大手企業でトップを務めたような方々が、役員として運営しています。助成した金額は、現在価値で300数10億円に達するということです。

関東大震災後の別邸跡地がどうなっていったかについては、未だ調べがついていません。恵泉幼稚園に問い合わせたところ、現幼稚園の用地は、昭和27年に国有地であったところを購入したということで、未だ繋がっていない状態です。登記簿をトレースしていけば判ることですが。

本稿を綴るに当たっては、原田積善会の事務局の方に大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。

潮騒の松や園児の秋の帽