俳句的生活(76)-馬入の舟橋ー

長い間、馬入の舟橋の絵図を見つけられなかったのですが、平塚博物館に所蔵されていることが判り、学芸員の方にお願いして、デジタル画像を送ってもらいました。9艘の舟で橋を作っていますが、これがリアルなものだとしますと、川幅を50mあるものと想定したとき、舟の間隔は5mということになり、相当に揺れるものであったと思われます。

馬入には川会所というものがあり、渡船に関する一切のことを管理していました。今、その跡地に石碑が作られています。茅ヶ崎側から馬入橋を渡って直ぐ右側の、ホテルと土手の間です。柳島村からも、渡船の人足は供出していましたが、管理の主体は平塚側(須賀村、馬入村)にあったようです。その理由ですが、今も相模川下流の左岸には、須賀や馬入の飛び地があって、平塚市に属していることから理解できます。相模川というのは、洪水を繰り返す毎に川筋が西に移動していった結果、須賀村や馬入村が新しい川筋で分断されて、飛び地として現在に至っているのです。江戸時代には、既に両岸は須賀、馬入の両村で占められ、管理は必然的に両村中心で行われたのです。

舟橋は、大人数の通過がある時だけに架けられました。将軍家茂の上洛や明治天皇の東京行幸の時に使われたのは勿論ですが、頻度としては、大名の参勤交代の時でした。しかし、使われない時の期間の方がはるかに長く、そうした時の舟や資材の管理など、どのように行われていたのか、興味あるところです。

明治になり、木造の橋が架けられるることになりますが、新政府には十分な資金を提供する余裕がなく、また、棟梁についても、隅田川での経験を持った棟梁を招かなかったため、何度も流失することとなりました。恒久的な橋が作られたのは、明治も40年を過ぎてからのこととなってしまいました。

舟橋に揺れて名月流れけり

馬入の舟橋絵図
平塚博物館所蔵 船橋絵図
馬入渡船会所跡の石碑
馬入川右岸の川会所跡
川会所跡の説明板