俳句的生活(75)ー萩園高射砲陣地ー

昭和20年、大本営は本土決戦の場として、米軍が上陸して来るのは、九十九里浜、茅ヶ崎海岸、宮崎海岸のどこかであろうと想定していました。最近の研究では、3か所のうち、茅ヶ崎海岸が最も可能性が高かったと言われています。海軍では、南湖の海岸に防御陣地の構築をしていましたが、萩園にも、高射砲陣地を作るということになり、農地が一方的に計画予定地とされました。場所は、現在の環境美化センターを中心として、30町歩に及ぶ広さでした。

7月16日夜、相模湾沖に進航してきた米艦船の艦載機による平塚大空襲がありました。狙われたのは、平塚火薬廠、西寒川の海軍火薬工廠、寒川の高射砲陣地、南湖の須賀砲台でした。萩園には被害は出なかったのですが、今宿では、20戸に焼夷弾が落ちました。この時の、高射砲陣地からの応戦ですが、残念ながら一機も撃墜できませんでした。

少し脇道にそれますが、当時の日米の、対空火砲について説明します。日本軍の場合は、空を高速で飛行する航空機に対しての照準は、現在の距離と速度を測定して砲身の方向を定め、更に砲弾が届くであろう時間を設定して、その時間に砲弾を炸裂させるという方式でした。これでは、最初の砲弾の発射に全てが任されていて、撃墜頻度は低いものでした。一方、米軍の場合は、照準を合わせるまでは同じなのですが、砲弾が炸裂するのは、目標物体の近傍に入ったときに自動的に行われるようになっていて、撃墜の確率は飛躍的に高まっていたのです。その機能を最も発揮した戦闘は、昭和19年6月のマリアナ沖海戦でした。当時の日本の零戦および爆撃機は、アメリカのものより航続距離が長く、連合艦隊が採った作戦は、アウトレンジ戦法と呼ばれるものでした。これは、相手の航空機の圏外から、先に攻撃機を空母から発進させるもので、この時司令部は、これで勝ったと思ったはずです。ところが暗号は全て解読されていて、レーダーでも飛行をキャッチされ、途中雲の上で待ち伏せされたうえ、それでもようやく敵艦にたどり着いた飛行機は、新たな炸裂方式を装備した対空火砲により、いとも簡単に撃ち落されたのです。米軍はこのときのことを、七面鳥を撃つようであったと言っています。

戦後、陣地は元の農家に返還されることになりました。ところがコンクリートで固められた砲台の部分は、個人で農地に戻すことは不可能で、現在工業団地と環境美化センターや温水プールとなっているところは、昭和35年に、日本住宅公団に売却されました。昭和38年の地図を見ますと、砲台の跡は未だ残っています。ごみ焼却場が完成して稼働を始めるのは、昭和54年からとなりました。

八月は易わることなし八月のまま

高射砲陣地跡
萩園高射砲陣地跡地
茅ヶ崎明細地図 昭和38年版より