山小舎便り(31)令和8年7月8日 諏訪大社・下社の大祝

1週間ほど前になりますが、久しぶりに下諏訪のほうにまで車を走らせ、諏訪大社の下社秋宮へ行ってきました。諏訪湖は霧ヶ峰や八ヶ岳に降った雨水が流入し、天竜川に流れ出ている湖なので、水は綺麗であるはずなのですが、水面にはいつもながらに青藻が繁殖していて、不思議に思うことです。

不思議と言えば、諏訪大社が上社と下社という二つの社から成っていることです。これは最初から別々の社であったのか、あるいは元々は一つであったのがある時点で分離したものなのか、いくつかの仮説がなりたつのですが、私自身は、上社と下社は最初から一つの神社だったのではなく、もともと別々の祭祀集団・神社であったと考えています。では、いつ一つになったのかということですが、おそらく奈良時代から平安時代にかけて、律令国家が「諏訪神」としてまとめて扱うようになったのだと思います。『延喜式』には「諏訪神社」として記載され、少なくとも平安時代においては、朝廷から一体の神社として認識されていたことが分かります。

上社と下社が元々は別個の社であったと推測させる根拠としては、主に二つが考えられます。一つは祭祀の性格が違っていることです。上社では「御頭祭」など、狩猟や武神的な祭祀が発達しました。これは上社の神長官を務めた守矢家の資料館を訪れれば一目瞭然です。これに対し下社では「御柱祭」、「お舟祭」など農耕や水運との結び付きが強い祭礼が中心です。このように宗教的性格にかなり違いがあるのです。

もう一つの根拠は、神職の家として、上社は諏訪氏、下社は金刺氏という二つの豪族が、それぞれが大祝(おおほおり)として、神職と政治権力を兼ねていたことです。上社の大祝は諏訪明神の依り代(よりしろ)であり、現人神(あらひとがみ)と考えられていました。神が人間の姿を借りてこの世に現れた存在であるとされていたのです。一方下社の大祝は現人神というのではなく、あくまでも神職のトップという位置づけでした。そうであったとしても、もし最初から一つの神社であれば、なぜ大祝が二人も必要だったのか、ということになります。つまるところこれは、それぞれが独立した祭祀共同体であったと考えるしかないのです。

上社の大祝については既にこちらに書いていますので、本稿は下社の大祝について記そうと思います。

上社の大祝が代々諏訪氏(神氏)であったのに対し、下社の大祝は金刺(かなざし)氏が世襲しました。金刺氏は、諏訪地方でも古い豪族です。一説には、律令国家が信濃に勢力を及ぼす過程で、中央政権と結びついた豪族であったとも考えられています。その証左の一つとして、下社では平安時代の比較的早い段階から、官印が用いられていたことが指摘されています。善通寺での佐伯氏と似通った豪族であったのかも知れません。この点は、在地色の濃い上社とは対照的です。

ところが室町時代になると下社は衰え、(1518)頃までには、下社大祝家であった金刺氏は没落し、歴史の表舞台から姿を消します。上社は諏訪氏が武士団の棟梁として勢力を伸ばし、中世には祭政一致の体制を築いたのですが、下社の金刺氏は武士勢力としては諏訪氏ほど発展できず、内乱の中で没落してしまいます。以後は上社優位の体制となり、江戸時代に幕府が授けた朱印地は上社が下社の2倍という関係になっていました。

ところが面白いのは、下社のある下諏訪は、中山道と甲州街道の交わった地点であり、街道が整備された以降は下社の繁盛が上社を上回るようになってきました。その流れは今も続いています。現在の下社の最大の観光イベントは御柱の木落しです。これは霧ヶ峰で伐り出した御柱を下社に運ぶ途中のもので、坂の傾斜がきつく、全国区でのイベントになっています。

下社御柱木落し
下社の御柱道中

一方上社の御柱は八ヶ岳で伐り出され、途中木落しはあるものの、傾斜が下社よりも緩やかで、さほど話題にされていません。特徴的なのは、宮川という雪解の川を渡るイベントですが、どういう訳か、これもそれほど注目されてはいないのです。

上社御柱川渡り
上社の御柱道中

現在、上社と下社を訪れてみると、明らかに下社のほうが周囲に土産物店などが多く、賑わいを見せています。この二つの社の歴史でみる事実と現実との間に、栄枯盛衰を感じない訳にはいきません。

神木に沁み入る諏訪の雪解水  游々子