俳句的生活(354)善通寺(14)東寺の末寺へ

今でこそ善通寺は、善通寺派総本山として、他の真言宗諸派と対等の位置づけになっていますが、かっては平安中期から江戸末まで、京都の東寺を本寺とする末寺となっていました。この善通寺のブログは、総本山善通寺が平成19年に善通寺創建1200年を祈念して出版した『善通寺史』に依っているのですが、私はこの本を手にするまで、そうした歴史を全く知り得ていませんでした。

東寺
東寺五重塔(Wikipediaより)

もともと善通寺は地元の豪族である佐伯氏の氏寺(私寺)として創建されたものですが、のちに国家公認の準官寺となっていきました。それは東寺による強い後押しで実現されたものですが、ここには東寺および善通寺それぞれに思惑があってのことでした。

平安時代中期、善通寺は空海の誕生地であるということで、その宗教的価値が注目されるようになっていました。そこに眼をつけたのが東寺で、弘法大師ゆかりの聖地である善通寺を自らの支配下に置きたいと考えるようになり、一方善通寺側も国司からの不当な税の徴収や圧迫に対抗するため、京都の有力寺院である東寺の後ろ盾を必要としていたのです。

善通寺が東寺の末寺になるのは、次の3つのステップで捉えることが出来ます。

第一ステップ:本寺末寺の関係が明確化されていない時期

藤原道長が この世をば の歌を詠んだ寛仁2年(1018年)、善通寺の寺司であった僧侶が東寺にあてて、国司による年貢徴収の苛酷さについて訴えをしています。訴え先が朝廷ではなく東寺であったところがミソで、この時期既にこの両寺は実質的な本寺末寺の関係であったことが示唆されています。

第二ステップ:1203年の九条良経による善通寺の東寺への「付属」

鎌倉時代になってくると、寺領を侵害する勢力として武士が加わってきます。ここで動いたのが、摂政・太政大臣であり、讃岐国の知行国主(名目上のその地域の支配者)でもある九条良経でした。彼は国司庁宣(国司の命令)でもって善通寺および隣接する曼荼羅寺を東寺に付属(寄進)させたのです。これにより善通寺は「知行国主が認めた東寺の完全な末寺」となり、国司による不当な介入や税の取り立てから免れる法的特権を得ることに成功したのです。

第三ステップ:1229年の朝廷による「東寺領」の正式公認

九条良経による付属のあと、東寺は更にその支配権を盤石なものにするため、朝廷に正式な承認を求めています。寛喜元年(1229年)、朝廷は東寺からの申請を受け入れ、善通寺・曼荼羅寺を正式に東寺領として認め、随心院(東寺の流れを汲む京都の有力門跡寺院)に管理させることに決定しました。これで名実ともに、国家の法制度の上でも善通寺は東寺の末寺となったのです。

両寺の思惑が絡み合っての本寺末寺の成り立ちでしたが、これによって善通寺は安泰になった訳ではありませんでした。今度は新たに、本寺から派遣されてくる別当による年貢の本寺への収奪に苦しむことになったのです。