俳句的生活(350)善通寺(11)明治維新
明治維新は薩長の武力討幕によって成し遂げられたものですが、同時にそれは江戸中期より盛んになった国学が原動力のひとつとなっていました。王政復古という古びたスローガンのもと、神仏を分離し、仏教を弾圧する政策が次々と出され、果ては廃仏毀釈という日本の歴史を否定するような蛮行までが日本各地で起きることになりました。
この時期、数多の寺院が廃寺となっていくのですが、その原因としては上で述べたことの他に、上知令により寺領が没収されて年貢収入を失い、経済的に寺の運営が出来なくなったことが、より大きな原因として挙げられます。
善通寺も例外ではなく、寺領から上がっていた400石を越える収入が途絶え、極貧状態になろうとしていました。しかし善通寺は生き残った。それはどうして可能であったのか。それを探ろうとするのが本稿の主題です。
企業においてもそうですが、経営が傾いたときに真っ先に行うべきことは大胆なリストラです。善通寺は空海が造った東院(伽藍)と元々は佐伯氏の居住地であった西院(誕生院)が、江戸時代まで別々の寺院として続いていましたが、これを一つの寺院として統合し、無駄な経費の削減を行ったのです。善通寺に行ってみると感じるのですが、東院と西院では何か違う雰囲気になっています。それはこの二つの院が江戸時代までは別個の寺院だったことに依るものです。
二番目の要因は、お遍路さんが増えていったことに依る収入の増加です。善通寺は弘法大師誕生の地という唯一無二のブランドがありますから、四国八十八ヶ所の札所の中でも特別の存在だったのです。四国遍路は明治になってその数を増やしていました。そして明治22年には丸亀と琴平を繋ぐ鉄道(多度津経由)がつくられ、善通寺へのアクセスは飛躍的に向上したのでした。

三番目に大きかったのは、五重塔を再建している途中だったことです。この五重塔は明治維新を溯ること20年前より再建が始まっていたのですが、幕末の動乱や廃仏毀釈などのために2層までが造られたままで放置されていました。善通寺はこれを逆手にとり、大々的な寄進活動を全国の真言宗信徒にかけていったのです。ここで集まった浄財は五重塔の再建費用を上回り、僧侶たちの生活を賄えるまでになったのです。単に経費をカバーするために寄進を呼び掛けたのでは集まるはずのない額が、五重塔の再建という大義を掲げたことで、寺の一般経費を補うまでに膨れたのでした。
最後の決め手は、明治31年に第11師団の司令部が善通寺に置かれたことでした。この決定の要因は政府が没収した善通寺の広大な寺領が、まだ手付かずのままに残っていたことです。新たに軍都を築くとなると、兵営の他に広い練兵場や病院用地などが必要となって来ます。四国に師団を置こうとした場合、善通寺に勝る候補地は他に無かったのです。これにより善通寺の人口は一気に倍近く増えて、地元経済が活性化し、お寺の方も潤っていったのです。
第11師団の初代師団長は乃木希典でした。乃木にまつわるエピソードは沢山ありますので、別稿で記したいと思います。
五重塔は明治35年12月に完成し、3日間にわたる入仏式が執り行われています。このころより善通寺は維新まえの門前町から近代都市に変容し、寺も過去最大の危機を乗り越えることが出来たのでした。
善通寺の五重塔は高さにおいて、東寺、興福寺につぐ三番目のものとなっています。内部は急な階段によって5階まで昇ることが出来、これは善通寺だけの特徴となっています。耐震も考えられていて、4階より太い心柱が吊るされていて、地震の揺れを逃がす構造となっています。


