俳句的生活(349)善通寺(10)法然上人

善通寺に親鸞堂が造られていることは、善通寺(1)で紹介しましたが、その契機となったのは、師である法然が善通寺を参詣していることによるものでした。

専修念仏を説き、浄土宗を開いた法然上人は、旧仏教教団の迫害をうけて、土佐に流されることになったのですが、上人に帰依していた前摂政九条兼実の計らいで、土佐ではなく九条家の荘園がある讃岐に移されることになりました。滞在するのは荘園の中にある生福寺というところで、現在の琴平のあたりです。

法然の讃岐滞在中のことは、『法然上人絵伝』というものに記されていますが、法然は土地の人たちへの教化活動や霊場巡りといったことを、配流の身とは思わせないほどに活動していて、善通寺にも参詣しています。善通寺の記録では、寺が「参詣する人は阿弥陀浄土の友たるべし」という趣旨のことを述べているのを法然が読んで、限りなく喜んだと記されています。真言宗の寺々は浄土宗に対して寛容であったのです。

善通寺東院(伽藍)の五重塔の脇には「法然上人逆修塔」というのが建てられています。

法然上人逆修塔の場所
善通寺デジタルミュージアムより
法然上人逆修塔
善通寺デジタルミュージアムより

口伝では、法然上人が自身の爪髪を埋めて建てたとされていますが、私自身はそうではなく、寺側がそうした話を創ったものと思っています。現在は石造物の形式からこの塔は室町時代に出来たものとされていて、配流の身である法然が自らその塔を建てたとは到底考えられないのです。

法然は九条家の庇護のもとで10か月間讃岐に滞在しています。

法然が暮らした生福寺がその後どうなったかということですが、数奇な運命を辿り、大化けすることになりました。江戸時代になり、讃岐は東を高松の松平藩、西を丸亀の京極藩が治めるようになるのですが、高松藩の初代藩主である松平頼重(水戸光圀の兄の子)は生福寺を高松の仏生山に移し、名前も法然寺として、高松松平家12万石の菩提寺としたのです。これは徳川宗家の増上寺が浄土宗であることから、頼重は讃岐に残る法然ゆかりの寺である生福寺に着目し、そこに破格の待遇を与えることで、幕府との関係を強化しようとしたものです。