俳句的生活(347)善通寺(8)雨乞い

香川県は全国有数の雨の少ない県で、古代より度々水不足に悩まされてきました。これが緩和されだしたのは、平成になって吉野川の上流に造られた早明浦ダムの水を、阿讃山脈を貫通するトンネルによって香川県内に水を導入するようになってからのことです。

江戸時代においても何度も旱魃が発生し、記録に残っている正徳四年(1714年)から元治元年(1864年)の150年間だけでも80回の雨乞いを善通寺は行っています。2年に一度という割合です。これらは丸亀の京極藩からの指示によるものでした。

『善通寺史』によりますと、雨乞いが行われたのは、境内の善女龍王社か丸亀城内の鎮守亀山社・天神宮であったと記述されています。

善女龍王社は伽藍(東院)の中の小さな池の中島に祀られている社です。

善女龍王社(総本山善通寺HPより)

私事になりますが、この社は私の小学校と中学校への通学ルートに当たっていて、当時は伽藍の築地の塀が何か所も壊れていて、自由に出入り出来ていたのです。

もう一つの場所である丸亀城内の亀山社ですが、こちらは現在の地図には記載されていません。おそらく明治になってから無くなる運命となったのでしょう。私が通った高校は丸亀城の内堀の脇に在ったので、丸亀城内には頻繁に足を運んでいたのですが、この社は当時既に存在していませんでした。

余談ですが、この丸亀城というのは、天保の改革で水野忠邦の片腕となって数々の悪事を働いた鳥居耀蔵が幽閉されたところで、その跡という処を城内の学芸員に伺って訪れたことがあります。

善通寺は中世・戦国期においては、地頭による蚕食や三好氏の兵火によって大きな被害を受けてきましたが、江戸時代においては丸亀藩の手厚い庇護を受けるようになり、細々ながらも寺の経営は安定してきました。雨乞いの祈祷を始めるにあたり、丸亀藩は護摩料として65石を寄進しています。これによって京極家の前に丸亀をおさめた生駒氏の寄進と合わせて善通寺は150石の年貢収入が得られるようになりました。更に丸亀藩はこの65石を330石に加増し、善通寺は420石を越える寺領を持つまでに至りました。

また善通寺は五岳山を所有していて、木材や肥料とする草を刈り取る管理権による収入がありました。

更に善通寺は出水 (ですい) と呼ばれる湧水池を管理する権利を持っていました。善通寺は金倉川の扇状地の上に広がった地域で、あちこちに出水が湧いていたのですが、善通寺はその中で最大の出水である「二頭(ふたがしら)出水」の管理権を持っていたのです。

二頭出水(善通寺観光協会HPより)

こうした様々な権益を年貢収入とは別に持つことにより、正規の収入は上級武士程度のものでありながら、善通寺はなんとか経営を繋げていけたのでした。