添削(77)ーあすなろ会(37)令和8年5月ー

美愉さん

原句 ネトフリで今が青春雲雀鳴く

ネトフリとは、映画やドラマを月額定額で見放題できる動画配信サービスです。本句は「ネトフリを見ているこの現在こそ青春だ」という句で、ネフトリという現代的な素材と雲雀という古典的季語の取り合わせで面白い句となっています。ただ、雲雀は鳴くものですから、「鳴く」という動詞は不要です。また上句の「ネトフリで」が「で」によって状況説明になっているので「や」にした方が良いでしょう。

参考例 ネトフリや今が青春揚雲雀

原句 夏めきて赤い靴の子海見てる

本句は「赤い靴の子」から自然に童謡「赤い靴」が連想され、そこへ更に「海見てる」で横浜の港に繋がってきて、巧みに本歌取りをしている秀逸句です。ただ、本句も前句と同じく上句の「て」が問題で、季語「夏めく」を説明的にしてしまっています。前句同様、ここも「や」にした方が良いでしょう。

参考例 夏めくや赤い靴の子海見てる

原句 主待つ自慢の牡丹咲きほこる 

本句は誰の視点で、何を感動の中心にしているのかが定まっていないところに問題があります。先ず「主待つ」ですが、これは文法的には牡丹が「主を待っている」ということで、牡丹を擬人化したフレーズです。しかしそのあとに「自慢の牡丹」が続くと、誰の自慢なのか、誰の庭なのか、作者はどこにいるのかが曖昧になっています。さらに「咲きほこる」で牡丹を描写していて、結局牡丹が豪華に咲いている、ということ以上のものが残らない結果になっています。つまり、句の中心が、主人を待つ牡丹なのか、丹精の牡丹なのか、見せたい気持ちなのか、不在の主なのかが定まっていないと言えます。

もし詠みたいのが、丹精した牡丹を誰かに見せたい気持ちであるとするなら、

参考例1 主来ると牡丹の庭を掃きゐたり
参考例2 丹精の牡丹見せたき日和かな 

などとなります。

また、牡丹そのものへ集中するなら、

参考例3 丹精の牡丹咲き満つ庭の奥
参考例4 門を入る牡丹盛りの庭ありて

などとなります。 

紫苑さん

原句 夏に入る波音高き烏帽子岩

この句は「烏帽子岩」という固有名が強く、茅ケ崎に住む人間にとっては茅ケ崎海岸の情景の輪郭線が明瞭に浮かんできます。ただ、少し気になるのは、立夏の傍題の「夏に入る」が、やや説明的な季語運用になっていることです。「波音高き」がすでに季節感を帯びていますから、上五の季語をもう少し映像的なものに変えると、句が締まりそうです。また、中句は「高き」と連体形で下句を修飾するよりも、終止形の「高し」にしてここで句を一旦切った方が、句に拡がりが増すと思います。

参考例 南風(みなみ)吹く波音高し烏帽子岩

原句 紅薔薇の花束抱き夜の帰路

本句はどういったシチュエーションでの花束であるのかを読者に想像させる句です。単に薔薇ではなく “紅薔薇” としていることから、定年退職のような目出度い席で貰ったものであろうと想像できます。中句までの華やぎに対して下句では少しの孤独感を付けていて、大人の情緒を醸し出している佳句です。このままでも良いのですが、花束は抱くものですから「抱き」という動詞は使わずに、「重し」に替えることで、想像を一層深めることが出来るのではないかと思います。

参考例 紅薔薇の花束重し夜の帰路

原句 全身に浴びる朝日や夏めきぬ

このあと弘介さんのところで述べますが、「や」で切るのは中句ではなく、上句にした方が良いことの一例です。

参考例 夏めくや浴びる朝日の全身に

桜子さん

原句 夏めくや玻璃の器に盛るお菜

本句は「夏めく」という映像を伴わない季語に「玻璃の器」という強い映像をもつものを合わせていて、清涼感を効果的に演出できています。問題は「玻璃の器に盛る」の「盛る」で、料理を器に載せるという意味をそのまま言っていて、平板な動作説明になっています。ここは何か発見的なことを一つ添える処です。

参考例 夏めくや玻璃の器のお菜透け

原句 青芝や空に溶け込むフリスビー

フリスビーとは回転を加えて投げることで空中を滑空するプラスチック製の円盤のことです。本句は「青芝」と「フリスビー」がよく合っていて、爽やか感が十分に出ています。ただ、気になるのは「空に溶け込む」で、これは作者の感想・解釈が直接述べられているもので、ここは別表現をして空に溶け込んだかどうかは読者の感想に委ねた方が良いと思います。

参考例 青芝や見失なひたるフリスビー

原句 緑さす家族写真の笑い声

この句は、緑さす、家族写真、笑い声、と感じの良い素材が並んでいるのですが、それぞれが「良い感じ」で止まっていて、句としての焦点が生まれていません。また、違和感が生じるのは下五の「笑い声」で、これだと写真から笑い声が聞こえる、ということになり、無理な内容になっています。「笑い声」と言わず、写真の中の具体的な顔の描写にした方が良いでしょう。

参考例1 緑さす家族写真の父若し

ただし、このようにしても、結局のところ、家族写真・若かった父という、誰もが容易に想像できる懐旧・感傷の範囲を抜け出せていません。ですから、句に深みを添えるには、写真に何かはっとさせる平凡ではないものを入れることが、この句では必要でないかと思います。

参考例2 緑さす家族写真に欠けし人 

冬翠さん

原句 夏立つや「かしこ」で結ぶ師への文

本句は「かしこ」という結語に、古風な手紙文化が表現されていて、品のある句です。問題は中句「かしこ」で結ぶ の「で」です。これが濁音であるために、軽やかな上句に対して中句が急に鈍く響いています。そして「で」は手段・方法を説明する助詞なので、”「かしこ」を使って結ぶ” という説明文の調子になってしまっているのです。「で」を使わずに句とすることは可能です。

参考例 夏立つや「かしこ」と結ぶ師への文

原句 駄句拙句余生を急かす青嵐

本句は「駄句拙句」と自嘲しながら、なお句作へ駆り立てられる感覚が、「青嵐」の強い季語とよく響き合っています。一点だけ修正するとすれば、中句の「余生を急かす」の「を」です。上句で「駄句拙句」と畳かけているので、中句でもこの勢いを保ち、「を」を無くして「余生急かせる」とするのが良いと思います。高浜虚子の有名な句に「春風や闘志いだきて丘に立つ」がありますが、中句を「闘志をだきて」ではなく「闘志いだきて」と勢いを持たせ、決意の強さを表現しているのが参考になるでしょう。

参考例 駄句拙句余生急かせる青嵐

原句 道問えば薔薇の垣根を左へと

本句は「薔薇の垣根」によって町の空気が見え、さらに「左へと」が会話を再現していて、生活感が十分に詠めている秀逸句です。直しは要りません。

とも子さん

原句 里山は若葉の波へ身を預け

本句は「身を預ける」の主体を里山とした擬人化の句ですが、「身を預ける」は本来、人間の身体感覚や心理に近い表現ですから、それを「里山」に直接負わせると、歯の浮いたようなことになってしまいます。作者が詠もうとしたのは、若葉に包まれて起伏する里山の景でしょうから、擬人化表現をせずに、景をそのままに詠むのが良いと思います。

参考例 里山へ若葉の波の寄せ来たる

原句 こどもの日故郷にある秘密基地

本句は、秘密基地が “ある” ではなく、秘密基地が “今の自分にどう響いているか” まで行って初めて一句になるタイプです。「秘密基地」という語自体が既にノスタルジーを強く持っていますから、「故郷」は出さずとも表現可能です。

参考例1 こどもの日秘密の基地は草の中
参考例2 こどもの日秘密の基地へ戻れさう

原句 初夏の風カピバラは湯に眼を閉ぢぬ

カピバラは寒さに弱く、動物園やテーマパークでは露天風呂を備えているところもあるようです。本句の問題点は、「の」「は」「に」「を」と助詞のオンパレードとなっていることです。その結果、散文性の強い句となっています。助詞を減らす一助は、上句の「初夏の風」を「風薫る」に置き換えることです。助詞をひとつ減らすだけでも、句は締まってきます。

参考例1 風薫るカピバラは湯に眼を閉ぢぬ

中句下句の「カピバラは湯に眼を閉ぢぬ」からも助詞を減らすことが可能です。

参考例2 湯に浸かり眼閉ずカピバラ風薫る

弘介さん

原句 ふところに句帳ひとつや風青し

本句は中句を「や」で切っていることにより、ふところに句帳ひとつあること が強調されて、句帳そのものへの説明・感慨が句の中心となっています。ここは「や」を使わず、“句帳をひとつ” とするのが良いです。

参考例 ふところに句帳をひとつ風青し

これにより、「風青し」の爽快感によって、句帳が単なる持ち物でなく、これから何かを書き留めようとする気分まで感じさせることになります。

原句 五月晴れ栄華の跡や毛越寺

本句のポイントは、「毛越寺」を詠むのに「栄華の跡」を添えるのが適切かどうかです。読者は毛越寺と聞けば、奥州藤原氏・浄土庭園・滅びた平泉文化を自然に連想しますから、「栄華の跡」と “説明” するのは的を得ていません。ここは現在の毛越寺の具体景を詠まなければいけません。(芭蕉の 夏草やつわものどもが夢の跡 の「夢の跡」は、この句の中に “平泉” が入っていないことによって、許容されているのです。)

参考例1 五月晴れ池に空ある毛越寺
参考例2 五月晴れ礎石静かに毛越寺

本句および前句はともに中句で「や」を使っていますが、この形式は古いもので、現代の俳句にはそぐわないものとなっています。その理由は、「や」のあとの字数が5音しかなく、「や」で強調された12音に対してパワー不足になること、また中句は “措辞” を工夫するところであるにも関わらず、「や」の1音がそれを不可能にしているからです。我々の句会では、「や」は上句だけで使用することを鉄則と致しましょう。

原句 散りてなほ花影を残す滝桜

滝桜とは枝垂れ桜の枝が滝のように見えることから付けられた名称です。全国各地に○○滝桜というのがありますが、中でも福島の三春滝桜が有名です。

本句には問題点がふたつあって、ひとつは「花影」と「滝桜」が季重なりしていること、もうひとつは「花影」と「散りてなほ」に時間的矛盾があることで、特に問題なのは後者です。「花影」は、基本的には花が盛りで、光を受けて地面や水面に映る状態を指します。ですから、「散りてなほ」となるとこれは実景ではなく余韻・記憶として読まざるを得なくなります。しかし本句には、その転換を支える言葉がないため、読みに推理が必要になります。つまり原句は、「散ったあとにもなお心に残る滝桜の印象」を詠みたいのでしょうが、それを「花影」という実景季語に背負わせたため、無理が出てしまっているのです。ここは残像・余韻・空間の気配を素直に詠んだ方が良いでしょう。
参考例1 散りてなほ人を黙せる滝桜
参考例2 散りてなほ空を占めたる滝桜