俳句的生活(343)善通寺(4)三帝御廟

鎌倉時代に源頼朝によって設置された地頭、初めは東国に限られていたのですが、承久の変を境に、それが一気に西国にまで広がっていきました。讃岐でもそれまで荘園の下司であったような武士が新たに御家人となり、地頭に任命されていきました。そうすると彼らは幕府の権威を笠にして近隣の荘園を侵害するような行為を働いていくことになります。善通寺はというと、自力で寺領を守ることは出来ず、彼らに荘司になってもらい守ろうとするのですが、今度はあろうことか彼らが寺の権利を侵害するようなことをやりだしたのです。寺の方は幕府に訴えるのですが取り合ってはくれず、そうしたとき力になってくれたのが、後嵯峨、亀山、後宇多の三上皇でした。三帝御廟とは善通寺が感謝の意を込めて建立した三上皇の御廟のことです。それらは今、南大門を入った左手の大楠(オオクス)の近くに建てられています。

善通寺の三帝御廟
現在境内に移設されている三帝御廟(善通寺市デジタルミュージアムより)

三人の上皇は当時、讃岐の国主となっていました。ここで国主というのは現代人が想像するような「戦国大名としての領主」のような権限を持った主ではありません。中世の皇室領・荘園制度の中での「知行主(ちぎょうしゅ)」に近い性格です。判りづらいですが、国主ー守護ー地頭 という三層の権力構造で、表向きは国主が最上位ですが、実態は現場にいる地頭の力が強く、争いは絶えなかったのです。そうした中、国主であった三上皇は善通寺の側に立ってトラブルの調停をやってくれたことで御廟は作られたのでした。私見ですが、後宇多天皇の子である後醍醐天皇が起こした建武の新政とは、この権力構造の中で地頭の力を削ごうとしたものであると思っています。成功はしませんでしたが。

この三帝御廟、昭和39年までは境内ではなく、境内の北側にありました。財の神と呼ばれていた地区で、私の生家はこの三帝御廟に近接していました。当時の三帝御廟は、一部に塀などがありましたが、保存などは全くされておらず、荒れるにまかされていて、塀の下部の石垣に野球の球を投げてもそれを誰からも注意を受けることがない、という状態でした。

昭和39年移転された後、そこは駐車場とされていましたが、現在その場には住宅が建てられていて、財の神に三帝御廟があったことは、今や市のアーカイブの写真としても残っていなく、自分で写真に収めていなかったことが残念でなりません。