俳句的生活(340)御朱印(1)鶴嶺神社

花は葉に、そして風薫る季節になってきました。寒くもなく暑くもない、こんな時には田舎道を少し遠いところまで自転車を走らせるのが最高です。そこで思いついたのは、御朱印集めをすることでした。茅ケ崎の神社仏閣の主だったところは、俳句的生活のブログを書くために、ほとんど廻りきっていますが、改めて今度は吟行を兼ねて廻るのも楽しい趣向であるに違いないと思い、御朱印を得られる処を選んで廻ることにしました。

事を始めるにあたって先ず御朱印帳を買い求めなければなりません。ChatGPTに伺いを立てたところ、自宅からほど近い鶴嶺神社が候補に挙がってきました。そこで早速昨日、神社の売店で求めてきた次第です。

御朱印帳は色違いで五種類あり、どれも本殿と大銀杏の図案となっていました。ネットで調べたときは黒色のものにしようと思っていたのですが、実際に見てみると白柄のほうが良く見えて、それを選ぶことにしました。値段は1500円で、全部で48社の御朱印が得られるようになっています。

御朱印帳

最初のページには既に鶴嶺神社の御朱印が、日付を除いて印刷されていて、そこに手書きで日付を入れてもらうのが初穂料の500円で、合計2000円の買い物となりました。

鶴嶺神社の御朱印

神奈川県には、鎌倉に鶴岡八幡宮、寒川に寒川神社という全国に名の知れた神社がありますが、鶴嶺神社は茅ケ崎でも地元の人でしか知らないほどのローカルな神社となっています。由緒としては鶴嶺神社が一番ふるく、権威あるものであってしかるべきなのに何故そうならなかったか、本稿ではその辺りを綴ってみることにします。

先ず鶴岡八幡宮との比肩ですが、鶴嶺神社も鶴岡八幡宮も共に源頼義(頼朝の五代前の源氏の棟梁)によって、岩清水八幡宮を勧請して創建されています。古さの点では鶴嶺神社が30年ほど先になっています。100年以上のちに頼朝が鎌倉に幕府を開くまでは、両神社とも単に地方の神社に過ぎませんでしたが、幕府が開かれてからは、鶴岡八幡宮に権威は集中し、鶴嶺神社の “広域的地位” は相対的に低下していきました。

鶴嶺神社の凋落の決定的な要因となったのは、和田の乱で茅ヶ崎(懐島)を拠点としていた大庭氏が滅亡し、神社は有力な御家人の後ろ盾を失ってしまったことです。江戸期まで鶴嶺神社は村の総鎮守の地位は保つものの、それ以上になることはありませんでした。

一方寒川神社との関係ですが、寒川神社は相模国一宮で、”制度的ブランド” を持った神社です。これは中世以降も “格式の基準” として効き続けるのですが、更に寒川神社は、八方除(方位・地相に関わる災厄除け)で広く信仰を集めます。この八方除は「寒川神社でしかできない役割」であったのに対して、鶴嶺神社の八幡信仰(武神)は、すぐ近くに鶴岡八幡宮が存在したこともあり、地域の惣社に甘んじざるを得なかったのです。

ただ、近世以降茅ヶ崎の夏の風物詩となっている浜降祭においては、寒川神社は格式は最上位ではありますが、祭を取り仕切っているのは鶴嶺神社となっています。この二つの神社の間には江戸期に神輿をめぐる “事件” もあり、それに関わった “家” は今も健在で、地方史としては興味つきない処です。

余生なほ丘へ丘へと青き踏む  游々子